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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
10章 嵐の前の
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喧騒の翌朝

朝の光に頬を撫でられて、ゆっくりと目を覚ました。


いつもなら侍女が戸を叩く音がしている頃だが、今朝はそれもなく、静かな部屋に鳥の声が響いていた。


薄い繻子越しに射しこむ光はやわらかくて、昨夜のお酒の残り香のように少し甘い。


指先が布に触れる。


隣を見ると、アスティが私の夜着を着て眠っていた。


そんなに背丈は変わらないのに、鍛えているアスティの肩や腕は締まっていて、少し窮屈そうにも見える。

すこし乱れた襟元に、黒髪がさらりと流れて頬にかかっている。


いつも凛々しく整った彼女の顔が、こんなふうに穏やかに寝息を立てているのを見るのは珍しい。

起こすのが惜しくて、しばらく眺めていた。

その呼吸の音だけが、朝の部屋を満たしていた。


今日は外遊の振替でお休みだ。


そう思うと、心が軽い。


静かに寝台から抜け出し、足音を忍ばせて窓を開けた。

露台に出ると、澄んだ空気が肌に触れた。

木々は朝露に濡れ、陽を受けてきらめいている。

緑の中を吹き抜ける風が、花の香りを運んできて――思わず深呼吸した。


今朝の庭には誰も作業している人影はいなかった。


当たり前。庭の作業員は全員、同じ酒宴にいたのだから。


大丈夫。荒天でもなければ半日くらい、人の手が入らなくても、庭の樹木はちゃんと自分で立っていられる。


「……ジェスは、きっとまだ寝てるだろうな」


昨夜はお酒の勢いで、あんなに楽しそうに笑っていたから、きっと今日は頭を抱えているはず。


飲み慣れている大人たちと違って、私とジェスは初心者で、お酒以前に空気に酔ってしまっていた気がする。


昨日の夜のことを思い出す。


笑い声と音楽。皿の触れ合う音と、香ばしい肉の匂い。アスティやリカリオおじ様の声。


あの空間は、温かかった――心まで満たされていくような、やさしい時間だった。


……行って良かった。


もし打ち上げに混ざっていなかったら、私はたぶん、帰りの馬車でのカイルの言葉を思い出して違う意味で眠れなかっただろう。


『時計の音を聴いている時は、俺がそばにいると思って』


あの静かな声。あの時の眼差し。


思い出すたびに、胸の奥がそわそわして、落ち着かなくなる。

カイルが何を言っているのか。どういう意図が込められているのか。わかるようでいて、まだ頭が理解を拒んでいる。


だめ。考えるのは、もうちょっと時間を空けよう。


だから――あの夜は良かった。


あの場の賑やかさが、考えすぎる私の頭を休ませてくれた。みんなが笑っていて、ご飯とお酒と音楽があって、あたたかい空間の中に自分がいられた。

ああいう時間は、きっと人を救うんだと思う。


ふと、そんな世界の続きを想像してしまった。


「ああいうお店の女将さんやるのって、楽しそうだな……」


常連のお客さんと世間話をして、一日の終わりにあったかいご飯を出して、「今日もお疲れさま」ってみんなに言う場所。


ご飯を、みんながお腹いっぱい食べて笑う。幸せが詰まった空間。


――そんな光景を、ぼんやりと夢想していた。


「ふぅん。リシェリアはそういうのがしたい?」


背後から、アスティの少し掠れた声がした。


振り返ると、彼女が寝ぼけ眼でこちらを見ていた。


髪が朝日を受けて、黒曜石みたいに光っている。


「おはよう、アスティ。そういうわけじゃないよ。でも、楽しそうだなって思って」


私は笑って答えた。


たぶん本心。


だけど――私はまだ何もやり遂げてない。


色んな人に迷惑をかけて、お世話をさせて、期待してもらった身の上。私を必要としてくれる人たちのために、先にやらなきゃいけないことがある。


それを終えてからじゃないと、きっと何かを始める資格はない。


「まあ、実際にお店を構えるのは、色々終わった後にしてほしいけど」


アスティが半分笑いながら、髪を手ぐしで整えた。


「お茶会とか、ご飯作ったり。今でもお休みの日にしたらいいのよ。リシェリアが誘ってくれたら、食べに来るから」


そう言いながら、彼女が立ち上がって、まだ眠気を帯びたまま私を抱き寄せてくれた。


「おはよう、リシェリア」


頬にやさしく唇が触れる、朝の挨拶。


アスティの体温が伝わって、心がゆっくり目を覚ましていく。


「そっか、そうだね。その時は、昨日みたいに泊まっていってね」


「ふふ、いいよ。でも今度は自分の寝衣を持ってこなきゃね。あの子、今日はいないからいいけど。サフィアに、こんな愛らしいのを着てるところはちょっと見られたくないわね」


サフィアも外遊の振替で休みだから、アスティは仕方なく私の夜着を着てくれていたらしい。


乳姉妹で、気安いからこそ――見られたくない姿もあるらしい。


「ええ? 似合ってると思うよ?」


私は令嬢姿のアスティも好き。どんなドレスに身を包んでも、格好良く、アスティ自身をあらわすように着こなしていると思うのに。


「だめだめ。これは、私がリシェリアに似合うものを選んだんだから。さ、とりあえず朝食にしましょう」


アスティが慌てたように話題を変えて、呼び鈴を鳴らした。


澄んだ音が部屋に広がって、新しい一日が、静かに始まった。

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