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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
10章 嵐の前の
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公女が守りたい眠り

いい頃合いだった。


杯の音が遠のき、場の熱気もゆっくりと冷めていく。私は立ち上がり、帳場へ視線を送った。


会計を済ませる頃には、外気はすっかり夜の冷たさを帯びている。通用門までの馬車を呼ばせる。


こういう段取りができるから、この店は王国軍や庁舎関係者に重宝されるのだ。多少の便宜をこちらで与えていることもあって、主人もよく心得ている。


「じゃあ、私はリシェリアを部屋に戻すから。二軒目までは出してやる。あとで使った分、請求しなさい」


私はリカリオへそう告げた。


「ありがたいお申し出です。あとの連中は私が見ておきますのでご安心を。お帰りはお気をつけて」


丁寧に礼をしたあと、リカリオは少し目を細めてセランを見る。


「セラン。門から庁舎まではお前に任す。責任をもって成し遂げろ」


「……了解」


短く返す声には、責務を理解した者の硬さがあった。


馬車を降りて城内敷地に戻ると、静かな夜気が肌を撫でる。まとわりついていた笑い声と酒場の温もりが、急速に遠ざかっていった。


セランは肩へジェスを担ぎ上げ、盛大にため息をつく。


「どうせ持つなら、リシェのほうがいいのに」


そのぼやきに、危うく吹き出しそうになった。


良いわけない。すでに城の人間の目がある領域で、見逃してやれる場所では、もうない。


「くそ……酒臭くなってる」


リシェリアが巻いていた黒い襟巻きを、自分の首へ巻き直そうとして顔をしかめ、結局腰へ下げ直している。


その隣で、私はリシェリアを抱き上げていた。


足元が少し危うい。さすがに歩かせる気にはなれなかった。機嫌よく笑ったリシェリアが、私の肩へ頭を預けてくる。頬が柔らかく触れ、温かな吐息がかかった。


「……馬車の中までは、抱かせてやったでしょう。この後は私が部屋まで持ってくんだから。ほら、行くわよ」


不満そうなセランの視線を無視して言い切る。


馬車の中では、彼に任せていた。


リシェリアはセランの膝に座り、その胸へ寄りかかって小さく鼻歌を歌っていた。酒気を帯びた声は揺らぎながらも穏やかで、そのまま眠ってしまいそうなくらいだった。


二人の距離としては、今さら驚くほどのことではない。あの子にとってセランは、家族で、守るべき相手で、息をする場所のようなものだ。私もそれを知っている。


けれど、それを外に見せていいかは別の話だ。


さすがに城内でまで続けさせるわけにはいかなかった。誰かに見られれば、どんな尾ひれがつくかわからない。


“赤と黒”の噂は沈静化した。だが、火種が完全に消えたわけじゃない。


実際、店を出る前には、同席していた兵士たちにも軽く釘を刺しておいた。


リカリオは弁えている。だが、ジェスみたいな素直な若手は、見たものをそのまま信じてしまう。


「聖女は赤で染めるべきだ」


――そんな軽口がまた広がるような真似は、絶対に避けたかった。


庁舎前でセランと別れ、私はリシェリアを連れて部屋へ入る。


ここは部外者――特に男の立ち入りは禁止だ。だが、私には関係ない。侍女の人選も管理も、すべて私の管轄下にある。


「私も泊まるから、湯を用意して」


そう命じると、侍女たちが慌ただしく動き始めた。


「わぁ、アスティと一緒に寝るのも久しぶり。嬉しい」


酔いの残る声で笑うリシェリアは、頬を赤く染めていて、どこか年相応の少女らしかった。


「リシェリアも外遊の振替で少し休みが出たでしょ。明日の朝もゆっくりでいいわね」


湯上がりには、少しだけ旅の話をした。


馬車での出来事。孤児院で出会った子供たちのこと。


話しているうちに声は徐々に柔らかくなり、布団へ入る頃には、もう眠気が勝っていた。そのまま、穏やかな寝息が聞こえ始める。うなされる様子もない。


旅の間に不穏な兆候はなく、本人の悪夢も今はない。


保護した直後は、セランと離れて眠ることにすら怯えていた姿を思い出すと、今も胸が痛むほどだ。サフィアからの報告では、今も時たまうなされるという。けれど、寄りかかっていなければ息もできないほど、誰かに依存したあの心細さは、もう見えない。


これでようやく、確認したかったことはひとまず全て問題なかったとわかり、胸を撫で下ろせた。


私はまだまだ飲めそうだったけれど、今夜はそれより、安心からきたのか眠気のほうが強かった。


灯を落とそうとした時、枕元に見慣れない懐中時計があるのに気づく。


繊細な彫金。銀の蓋に小さく刻まれた名。


――アリアン・ラス。


カイルの母親の名前じゃない。


「……こんなところにまで、カイルのものがあるのね」


思わず笑いが漏れた。なんだかんだ言って、この男も頑張って食らいついている。


本当に、あの男は抜け目がない。

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