酩酊の憧れ
街の中心部、喧騒と灯が絶えない盛り場と、上級商人たちが軒を連ねる商店街の境目。その裏通りにある清潔な酒場へ入ると、アスティ様は迷いなく店主に声をかけた。
「今日は奥を使わせて」
慣れた足取りで進むアスティ様に、リカリオさんや他の騎士も臆することなく続いていく。軍に長くいれば、こういったお店に詳しくなるのだろうか。
奥の席は、厨房の熱気も人々のざわめきもすぐ近くに感じられるのに、店内からは見えない仕切りがあり、不思議と落ち着いた。香ばしい肉の匂い、木の皿が触れ合う音、笑い声。それらに包まれながら、僕たちは長卓を囲んだ。
店員が手際よく酒瓶を並べ、泡立つ琥珀色の液体が次々と杯に注がれていく。アスティ様は品書きをろくに見ず、さらりと料理を注文した。その声は堂々としていて、この空間までも支配してしまうようだった。
「今宵はアスティ様持ちだ、存分にやれ! 呑みっぷりを見せてみろ!」
リカリオさんの豪快な声に、奥の席がどっと沸いた。杯がぶつかり、笑い声が弾け、酒の香が立ち上る。乾杯の声が重なり合って、まるで祝祭みたいだった。
リシェリアさんは少し頬を赤らめながら、困ったように微笑む。
「私のことは気にしないでくださいね。皆さんの慰労の場ですから」
その柔らかい声を聞いた瞬間、場の空気が一段やさしくなった。兵士たちは顔をほころばせ、少し照れくさそうに笑う。
「ひぁ!? な、何するの」
突然、リシェリアさんの小さな悲鳴が上がった。どうやら、セランさんが後ろで何かやらかしたらしい。「おまえ……」と低く言いかけたセランさんを、リシェリアさんが軽くはたく。場の兵士たちがどっと笑った。
この二人、やっぱりすごく自然だ。
息を合わせるように、笑いも言葉も噛み合っている。
アスティ様はその様子を見ながら、リカリオさんの向かいに腰を下ろしていた。銀の杯を軽く掲げ、涼やかな微笑みを浮かべる。
「任務完了、ご苦労だった」
「当然のことです、アスティ様」
貴族というより、仲間としての乾杯。その光景に、胸が熱くなった。
セランさんは当然のように、リシェリアさんの隣へ腰を下ろす。隙間なんてない。まるで、その距離が最初から決まっていたみたいだった。言葉は少ないけれど、彼の視線は絶えず彼女を追っている。警護というより、もっと根源的な何か。呼吸みたいに自然に、そこにいる。
「セラン、酒の減りが遅いぞ」
リカリオさんが陽気に声をかける。
「明日朝当番あんだよ」
セランさんが苦笑混じりに返す。敬語もなし、遠慮もなし。本当に、仲間ってこういう関係を言うんだと思った。結局、リカリオさんの手酌を受けて、セランさんは渋々杯を傾ける。
その横でリシェリアさんが「無理はしないでね」と声をかけると、「お前こそ、それだけにしとけよ」とあっさり返される。そのやり取りに、思わず笑いそうになった。
「私が部屋まで送るから、リシェリアも、まあ、そこそこは飲んでいいよ。いい果実酒があるわ」
アスティ様が軽く言うと、リシェリアさんは目を丸くして、それからぱっと笑顔を咲かせた。
「わぁ、ありがと……!」
その反応の可愛らしさに、兵士たちの顔がまた緩む。
僕はといえば、胸がいっぱいで、空気に酔っていた。こんな席に自分が混ざっていいなんて、夢みたいだった。アスティ様が時折こちらを見て、「ジェス、好きなの食べなさい。遠慮は不要よ」と声をかけてくれるたび、心臓が跳ねる。
焼きたての肉を頬張ると、香ばしい油が弾けて舌に広がった。木皿にこぼれた汁の匂いさえ幸せに感じる。リカリオさんが陽気に騎士の逸話を語り、アスティ様が笑いながら「誇張が過ぎる」とたしなめる。その笑い声を聞いているうちに、本当に、世界の中心にいるような気がした。
リシェリアさんがセランさんの口に食べ物を差し出し、セランさんは気恥ずかしそうに口を開ける。その口元を、彼女が柔らかく布で拭った。その仕草は恋人というより、長い年月を共にした家族のような自然さだった。
セランさんはたまにそっぽを向く。けれど、その横顔はどこか緩んでいて、結局、視線はまたリシェリアさんへ戻っていく。こっそり見つめながら、杯を傾けている。
僕がその様子を見ていることに気づくと、セランさんは咳払いして、少しだけ目をそらした。無言で「見んな」とでも言いたげに。
……いや、見たくなくても目に入るんですって。
他の兵士たちも、ちらほら冷やかす声を上げていた。「仲いいな」「新婚かよ」なんて言いながら。でも誰も、本気で茶化したりはしない。この二人の空気を壊したくないんだと思う。ここにいる誰もが、二人の間にある静かな絆を知っていた。
なのに、どうして「赤と黒」みたいな馬鹿げた噂が立つんだろう。
どう見たって、リシェリアさんの心はセランさんに開いている。この光景を見れば誰だってわかるはずだ。ここに他人が入り込む隙間なんて、ないように見えるのに。
でも、知っている人は知っている。普段、王宮の中でリシェリアさんの隣にいるのは、いつもカイル様だ。寄り添って祈りを捧げる姿しか、外の人には見えない。あの距離の近さを見れば、誰だって誤解する。そう思うと、なんだか歯がゆい。
……いや、僕の方が分があるんじゃないかな。
少なくとも、カイル様よりは。
リシェリアさんは、僕にも普通に接してくれる。庭仕事の時なんて、自然と一緒にいる機会が増えた。嫌がられたことなんて一度もないし、秘密の会話だってしている。向こうから手を繋いでくれたし、頬に口付けだってしそうだった。
少しずつ信頼を積み重ねれば、きっと、少しくらいは僕のことも……。
そんなふうに考えたところで、リシェリアさんがちらりとこちらを見た。目が合って、何かを言われたけど、酔っているせいかうまく聞き取れなかった。ただ、その仕草だけで胸が跳ねた。いつもの聖女じゃなくて、町の女の子みたいに無防備で、可愛く見えてしまった。
――ああ、こうやって人は勘違いするんだな。……怖い。
昨日まで、そんなこと考えたこともなかったのに。
ほんとうに、リシェリアさんは魔性の人だ。見た目も声も、仕草までもが、気づいたら心をふわっと攫っていく。
「セラン。ジェス眠っちゃったよ」
リシェリアさんの声が遠くで響く。
「寝かせとけ。誰か担いで帰るさ。こいつは明日休みだったはずだから起きれなくたって構わない」
セランさんの低い声。
そのやり取りを聞きながら、自分が本当に眠ってしまったのか、それとも最初から夢の中に落ちていたのか、わからなくなっていた。




