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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
9章 悪夢
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日常の帰還

本章のエピローグになります

初めての外遊を終えたはずの一行が、閉門ぎりぎりまで戻らず、遅れがあるのかと、胸の奥がずっと落ち着かなかった。

夕暮れの空が紫に沈むころ、門兵が旗で合図を送ってきたのが見えた。


――やっと、戻ってきた。

外気の冷たさより、胸の鼓動のほうがずっと熱い。


「あ、リシェリアさん、お戻りになったみたいですね。……城門まで迎えに出ます?」

ジェスも同じように目ざとく合図を見つけて、俺に横から言う。

俺が落ち着かないのを見抜かれていたんだろう。

昼の巡回も、訓練の指導も上の空だった。


「いや、あっちが来るからいい」

俺はあくまで平静を装ったが、声の奥が揺れた。

降誕節から解放されて一番に来たところも、庭だったんだ。だから、ここで待っているだけでいい。

自分のした偉業より、日々の「ただいま」と「おかえり」を愛する。それが、俺のリシェ。


かつ、かつ、と石畳を踏む音が響いた。

小走りの軽い音――やっぱり。

俺の耳は音だけでわかる。


風が流れてきてはっきりと匂いでも感じ取れる。

無事に、元気に帰ってきた。


「戻ったよ。……ちゃんと元気にしてた?」


俺の確信から一拍遅れて、黒い襟巻きを少し下げ、柱の影からリシェが現れる。

ひょこっと顔を傾げて笑った。

その笑みを見た瞬間、胸の奥の張り詰めた糸が切れた気がした。


遠出の疲れが微塵もない。

風に晒された髪がわずかに乱れていて、それが妙に愛しかった。


「おい、走るな、跳ねるな。っ飛びつくなって!」

思わず駆け寄ってきたリシェを、止めようとして腕を出した。

けどもう遅い。

飛び込んでくる勢いのまま、胸の中に収まる。

その体温が、驚くほど自然に馴染んだ。

……久しぶりなのに。気にしなければならないことがある。


「いいじゃない」


良くねぇ!

慌てて左右を見て誰もいないことを確認する。こいつは要人のくせに、警護兵すら後ろに置いて駆けて戻ってきたらしい。


王城の中庭はもう夕闇。

衛兵の詰所からの灯りが遠く、人気もない。

ジェスが「大丈夫ですよ」と目で合図をしたのを見て、息をつく。

俺はほんの少しだけ、腕を回した。


「おかえり」

喉の奥が震える。

本当は、抱きしめて頬を寄せたいが、今日もまた我慢した。何度も、何度も。何年も前から。そうやって押しとどめてきた。


「うん。ただいま。……これ、ありがと。あんまり使ってないよ。安心して」

リシェが笑いながら俺の襟巻きを返す。

その笑顔が、どこか誇らしげで、少し照れている。

 

旅のあいだ、こいつを守ってたはずの布。

俺の匂いは、もう抜けていて代わりに、淡い草と風の香りがした。


「泣きべそしなかったか。えらいえらい」


軽く頭を撫でてやる。

涙の跡もないし、汗の匂いもない。

けれど――ほんのわずか、あいつの体温の残り香がして、それだけで胸がいっぱいになる。

抱きしめて寝た形跡はない。

……ちょっと、残念だった。


「でもありがとう。嬉しかった」

言葉の響きがやさしい。

俺が何度も頭の中で想像した「ありがとう」が、

いま目の前で息になって落ちる。


「ああ」

それだけしか言えなかった。

何かを言うたびに、感情が溢れそうで。


「ジェスも。留守番ありがとう」

リシェは恥じらいもなく俺に身を預けたまま、

肩越しにジェスへ笑顔を向ける。

あいつらしい。

どんな場面でも、他人に気を配る余裕をなくさない。


「いえいえ」

ジェスの返事が、少し照れたように響いた。


「また明日から。よろしくね」


その声は、柔らかくて温かい。

一日の終わりに灯される蝋燭の火みたいで――

その光が胸の奥に差し込んで、俺はもう、何も言えなかった。

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