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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
9章 悪夢
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機械仕掛けの心の音


いよいよ、王都に戻る馬車。

昼を終え、最後の行程だ。

外の光は少し傾き始めていて、窓越しに金色の影が揺れていた。

あとは数時間、馬車に揺られて帰るだけ。


私は先に乗り込み、サフィアを待っていた。

荷を整理しながら、旅の名残りに目を落とす。

少しの疲労と、少しの達成感。無事に終わったことへの安堵。


そのとき――外から少し戸惑うような声がした。


「カイル様、困ります」


サフィアの声。思わず顔を上げる。

次の瞬間、扉が開いて、乗り込んできたのはカイルだった。


「失礼。出してくれ」

低く静かな声で御者に指示を出し、私の向かいに腰を下ろす。

馬車はそれほど広くない。脚を組むと、膝が触れ合ってしまうほどの距離だった。


「カイル、どうしたんですか?」

問いかけると、外にいたサフィアが、困ったように眉を寄せながらカイルが乗っていた馬車の方へ移っていった。


「うん。最後はご一緒させてもらおうかなって」


「そうですか……ええ、はい。わかりました」


どういう理屈なのか分からないけれど、拒む理由もなかった。

馬車はすでに出てしまった。閉門までに城へ戻らなければならないし、時間を惜しむ余裕もない。

揺れに合わせて、わずかにカイルの肩が揺れる。沈黙が、車輪の音の合間に落ちた。


「リシェリア。その襟巻き、どうしたんだい」


不意に声がして、そちらを見ると、カイルは頬杖をついて外を眺めていた。

少し不貞腐れたような声音。

珍しい――そんな幼い表情をする人だっただろうか。


私は自然と手を伸ばし、首に巻いたものに触れた。

「これは……私がセランに編んだんです。降誕祭のお祝いに。でも、旅路が寒くないように貸してくれました」


悪夢のことも、あれがセランからの“お守り”でもあることも言わなかった。

それは私とセランのあいだにある、静かな約束のようなもので――他の誰にも触れられたくない記憶だった。


「リシェリアが編んだんだ」

カイルはその言葉をゆっくり反芻するように口にした。


「ええ」

視線を落とす。

あの時は、城で部屋に籠もることが多くて。手だけが動いてくれるのが救いだった。


「……羨ましい」


ふと、低くこぼれた声。

顔を上げると、カイルはまだ窓の外を見ていた。

ほんの少しの間があって、私は笑って言った。


「何か編みましょうか?」


そのとき、カイルの目がわずかに揺れた。

でもすぐに言葉がこない。


「カイル?」


しばらくして、彼は小さく息を吐き、視線をこちらへ戻した。

「ごめん。ねだっているわけじゃないんだ」

苦笑に近い微笑みが浮かぶ。

「………俺にも、血縁の家族はすごく遠縁のものしかいないから。手作りのものが、羨ましくて」


そう言った彼の声が、やけに静かで、どこか遠かった。


――カイルも、そうなんだ。

いつも毅然としていて、どこか冷静な人だと思っていたけど。

その奥に、私と同じ孤独があるなんて考えたこともなかった。


「私と同じですね」


心が少しだけ柔らかくなる。

あの人の中にも、私と似た寂しさがある。

だからこそ、彼の言葉は時々あんなにも真っすぐに響くのだ。


「構いませんよ。何をお編みしましょう? ね、どんなのが欲しいですか。靴下、手袋なんかもできますよ」


少しでも笑ってもらいたくて、そんなふうに言ってみた。

そして、言葉の代わりに、そっと彼の膝に手を添えた。


その温もりが、揺れる馬車の中でわずかに伝わった。


カイルは、私の手の上に自分の手を重ねて、そっと取った。

その掌は、思っていたよりも大きくて温かい。


「ごめん……そんな話をするつもりじゃなかったんだ。これを渡したくて」


手袋ごしに、硬質な重みが乗せられる。

視線を落とすと、そこには銀色に光る懐中時計があった。

蓋には細かい意匠が刻まれ、繊細な唐草のような模様が美しい。まるで小さな宝物のようで、掌にずしりと重い。


「……アリアン・ラス、という名前がありますが」

蓋を指先でなぞり、声に出して読んだ。


「母の名なんだ」

カイルの声は淡々としていたが、その奥に微かに沈んだ響きがある。


「え」

それは、ただの贈り物ではないだろう。

きっと形見のようなものだ。

流石に私も、すぐに反応できなかった。胸の奥がざわついて、何かが詰まる。


「あの。それは。高価な物ですし……そんな物、頂けません」


「たとえば、リシェリアがアーレンス家に嫁ぐなら夫婦のものだし、気兼ねいらないよ」


カイルは、少し笑っていた。

さっきまでの子供のような顔ではなく、いつもの余裕のある穏やかな表情に戻っていた。


「え……」

聞こえたけれど、処理はできない。何度も繰り返して頭の中で彼の言葉を整理しようとしたけれど、考えが進まない。鼓動ばかりが早くなる。


「ごめん。気にしなくていいよ、まだ。……じゃあそれは貸すということにしよう」


カイルが、私の狼狽を見て――艶やかに笑った。


初めて会った時、あまりに綺麗で、つい見入ってしまった事を思いだした。


でも、あの時よりずっと、ずっと綺麗だと思った。生き生きしていて、嬉しそうで、楽しそう。

これが、“美しい”って概念なんだと、思った。


カイルは時計を一度引き取り、手巻きのネジをゆっくりと巻いた。

小さな音が、カチ、カチ、と空気に混じって流れる。


「聴いて」

彼は巻いた時計を、私の耳にあてるように手を伸ばした。


せめて受け取ろうと手を伸ばしたけれど、カイルは首を横に振り、そのまま自分の手に持った時計を私の耳へと近づけた。


だから――私は、カイルの手に導かれるままに、時計にそっと耳を寄せた。


チクタク、チクタク、チクタク……


規則正しい時計の駆動音が、耳の奥にしみ込んでくる。

それはまるで、見えない誰かの心音のようで、不思議に胸が静かになっていく。


「時計は心音に似ているらしいよ」

耳の近く、低く落ちるカイルの声。

「落ち着かない時や眠れない時に、その音を聴くことに集中することで、雑念を消すことができる。悪夢なんて打ち払える」


声が振動になって、肌に伝わる。

今、この小さな世界には、カイルの声と、時計の鼓動だけがある。


「もし、次に眠れない時があったら。耳を澄ませてみて欲しいんだ」


胸の奥に、その言葉がやさしく沈んでいった。


カイルも、知っていた。

私の悪夢のことを。

目を閉じ、時計の音に集中して、嫌なことを思い出さないように、声を絞る。


「……ご存じなんですね」


「ごめん、旅の間にリカリオから。彼も心配していたよ」


胸の奥が、じんわり熱くなる。

いろんなところに心配をかけているんだな、私。

異端だった過去、血縁の人は誰もいない私。

それなのに、今は孤独なんかじゃ全然ない。

そのことが、胸いっぱいにうれしい。


――だから、早く克服しなきゃ。

初めて、そう思えた。


「わかりました。お借りして、早くお返しできるように頑張ります」


素直な気持ちで、感謝を笑顔で伝えると、


「わかった」

カイルは、無邪気な笑みで私の気持ちを受け取ってくれた。


その瞬間――ガタ、と馬車が揺れた。


手を伸ばしたままだったカイルが、バランスを崩し、

銀の懐中時計が彼の掌からするりと滑り落ちる。


「時計が」


反射的に、私が鎖に手を伸ばす。

落とす前に、なんとか捕まえることができたけれど――

その代わりに、私の身体がぐらりと傾いた。


あっ。


「リシェリア……大丈夫?」


思いの外近く、カイルの声が響いた。

気がつけば、私はカイルの胸の中にいた。


時計はもう耳元にはないのに、早い心臓の音が聞こえる。

カイルの音だ。


「時計は大丈夫です。倒れ込んですみません……」


そう言いながら、すぐにどこうと思ったのに。

カイルの胸から、身体が動かない。

息づかいがすぐ耳元に落ちてくる。


「あの」


「……せっかくだから聴いてみて。時計と心音はちゃんと似てる?」


彼の腕に、ほんの少し力が込められた。

聴くまで離さないような、静かな強さ。


私は瞼を閉じて、耳を澄ます。


「時計の音より……大きくて早いです」


「……うん。それは仕方ない」


低い息とともに、短く答える声。

胸の奥で鳴っている心臓の音は、確かに時計と同じ規則を持っているけれど、それよりも生々しく、あたたかかった。


「確かに音は似ているかもしれないですね」


「そうか。じゃあ、時計の音を聴いている時、俺は君のそばにいる。そう思っていて欲しい」


カイルの手が、祈るように少しだけ私を強く抱いた。

その温もりが、揺れる馬車の中で一層鮮やかに感じられた。


「それは……ちょっと。……余計眠れなくなりそうです」


やっとのことで、言葉が出た。

それはつまり――眠る時にカイルがそばにいるという意味で。

あの声を、あの距離で、こんなふうに聞かされながら目を閉じるなんて、眠れるはずがない。


セランだったら、きっと安心して眠ってしまえる。

でも、カイルだと……。

胸が高鳴って、呼吸の仕方まで分からなくなる。

気まずさと恥ずかしさが、雪崩のように押し寄せた。


「それは何故? 言語化してみて」


――耳元。

囁くような、低く抑えた声。

息がかかるほどの距離。

この口調。カイルがわかっていて、私に言わせようとするときの言い方だ。


頬が熱くなる。

言葉を探しても、どうしても出てこない。

まるで、心を見透かされているようで、視線を合わせることができなかった。


「だって。もう……離してください」

考えたくなかった。

触れている場所の熱まで、自分のものみたいに感じてしまうのが怖くて。

抗議の声は小さく震えた。


「……今日はまだ一歩目だ。この辺で許してあげるか」


ようやく、カイルの手が離れた。

その声には、どこか愉しげな色があった。

わたしの動揺を見透かして、満足げに。


「やっぱり、何かリシェリアに手作りのもの作って貰おうかな」


「……いいですよ。何がいいんですか?」

照れを隠すように、言葉を早口で返す。

これ以上、沈黙を置くと、自分の鼓動まで聞こえてしまいそうで。

苦情を続けるより、話題を変えるほうがましだった。


「リシェリアが俺のこと考えて作ってくれるなら、なんだっていい」


まるで面白い謎を出すみたいに、カイルは口角を上げて言った。

あの目の奥の光は、時々ずるい。

何を考えているのかわからないのに、心の奥にまで踏み込んでくる。


……セラン、助けて。


心の中で小さく呟き、顔を襟巻きの中に隠した。

黒い布の内側に逃げ込むように、赤くなった頬を隠しながら。

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