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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
9章 悪夢
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過去を知る護衛騎士

とうとう、待ちに待った外遊公務が始まった。


窓越しに揺れる景色は、王都の整った街路から少しずつ野に開け、農地や村落の広がる風景へと変わっていく。硬い舗装が途切れ、馬車が石と土を踏みしめる感覚が座席を通じて伝わる。振動に合わせて、積んだ書類が微かに震えた。


俺は膝の上で行程表を広げる。紙の上に整然と並ぶ日程は、何度も読み返したせいで頭に入っている。それでも、あらためて確認せずにはいられない。書かれた予定の一つひとつが、リシェリアの肩に重くのしかかるものだからだ。


今は別の馬車にいる。公務に必要な格式上の区分けもあるし、警護の配置もあって仕方ない。だが街に着いてからは、ほぼ一日中、彼女と行動を共にする。人々の視線を浴び、言葉を求められ、祈りを捧げる彼女を、俺は傍で支えることになる。


数日前のことを思い出す。初めての外遊公務が近づいていて、彼女は珍しく言葉少なだった。机上に置かれた資料の束に視線を落とし、青い瞳を揺らがせていた。背筋は正しく伸びているのに、膝に置いた手だけがそっと握りしめられていて――あれは緊張と重圧の表れにほかならなかった。


だからこそ、支えたい。彼女が歩むべき道を、自らの足で歩めるように。俺はその隣に立ち、余計な不安を削ぎ落とすための盾になればいい。


分霊樹――各地に根を張る大樹の子株。大樹に加護されるこの国の象徴であり、地方の人々のよりどころだ。聖女がそこに巡礼するのを望む声は多い。その儀を滞りなく進めさせるのは俺の役目でもある。


慰問は数を絞った。彼女の体力と心の負担を考えれば、全てに応じる必要はない。だが選び抜かれた場では、人々の心に届くよう、彼女の真実をそのまま伝えさせたい。


領主邸への挨拶も欠かせない。地方を治める者たちにとって、聖女の来訪は誇りであり、同時に政治の場でもある。余計な駆け引きを持ち込ませず、ただ清らかな敬意のやりとりに収める。それは俺が間に立つべきことだ。


そして――軽く土地の視察もさせたい。

地に足をつけ、その地で生きる人々の息を、彼女自身に感じてほしい。机上の記録ではなく、風の匂いと土の色で確かめたものは、彼女の祈りをより深いものに変えるだろう。


俺は行程表を折り畳み、深く息を吐いた。


昼を兼ねた馬休めの休憩。

薄曇りの空の下、馬たちが草を噛む音と、兵士たちの控えめな談笑が周囲に広がっていた。俺は少し離れた場所から行程表を改めつつ視線を向ける。


――リシェリアが警護の一人と話していた。


相手は三十半ばほどの騎士。がっしりした体格に、年の功を示すような落ち着きもありながら、口元には柔らかな笑みを浮かべている。リシェリアが小さく礼をすると、その男は気安く受けて、また何か言葉を返す。彼女は頬をわずかに緩め、楽しそうに応じていた。


胸に、刺すようなものが走る。


……こういう距離の詰め方をする男は嫌いだ。

初対面であれ何であれ、たやすく懐に入り込む。自分が築けないほどの速さで、あっけなく笑みを引き出してしまう。軽薄だ。


嫉妬だと自分でわかる。安っぽく、醜い感情だ。だが抑えられない。

聖女の方が上位にある。彼女が元は平民であろうが、相手が騎士階級であろうが、礼を失せば立場は崩れる。だからこそ護衛は距離をとるべきなのに――笑みを返し、軽く踏み越えていく様を、俺は見過ごせない。


俺が誇れるのは、ただその距離だけだ。

近すぎず、遠すぎず、踏み込みすぎず、それでも誰よりも近くあろうと間合いを見極めてきた。

だが、ああいう軽さで土足のように踏み込まれると、その価値さえ無にされる気がして、苛立ちが募る。


俺の知らない表情を、他人に簡単に見せないでほしい。

俺にだけ眼を向けてほしい。


それに――俺の胸を重くするのは、思い出の積み重ねだ。

その筆頭のセランは兵士。以前絡まれていた、ダリオも兵士だった。そして今、目の前で親しげに会話を交わすこの男も、また兵士。

兵士というやつらは、基本的に”聖女”が好きだ。

いや、好むのは役職そのものだ。

兵士たちは民衆に近い。日々、命を賭けることでしか己の勇を示せない。彼らにとって人心を得るのは容易い。血を流し、倒れ、立ち上がる。それだけで「英雄」と呼ばれる。勇敢さと称される行為は、言葉で飾れば高潔に響く。だが実際は、自らにとって唯一無二の命を、あまりにも簡単に賭け代にしてしまう。それが俺には、愚かしいほど軽薄に見えるのだ。


聖女というものは癒しの権能を持つ。自分たちの命と引き換えにする戦場の現実の中で、唯一その死への危険を癒し、繋ぎ止めてくれる存在――それが聖女だからだ。

だから彼らは聖女という役職を根本的に「愛する」。

だが――それはきっとリシェリアである必要はないはずだ。


俺は違う。絶対に。

俺が抱いているのは、役職を纏った象徴ではなく、リシェリアというひとりの存在そのものだ。彼女の声を、仕草を、時に無防備な笑みを。俺は純粋に、ただそれを欲している。


ダリオの件が頭をよぎった。

兵士というのは信用に足る者もいるが、一方でいくらでも隙を突いてくる。油断できない。念のため、いつでも照会できるように素性は確認しておこう。


「リシェリア。そろそろ出発するよ。時に……彼は知り合い?」

俺が静かに問うと、彼女は振り返り、柔らかな声で答えた。


「はい、カイル。リカリオおじ様です」


リカリオと呼ばれた男は、俺に向き直って膝を折った。動作にそつがない。


「担当官殿、ご挨拶遅れまして失礼致しました。アストリット・メイスン公女の騎士、リカリオ・ハーティにございます。聖女捜索の折、殿下の手勢として帯同しておりました。その折にリシェリア様と面識を得た次第にございます」


……聞きたいことを過不足なく、淀みなく述べる。悔しいが、礼を弁えた態度だ。


「なるほど。その節は大義だった。彼女が無事勤めあげられるよう、これからも助力を頼む」

あえて硬さを削いだ調子で応じる。過度に敵意を露わにするのは得策ではない。まずは探る。


「喜んで」

リカリオはにこやかに答える。


その直後、リシェリアがふわりと笑った。無邪気で柔らかい笑顔だった。

「おじ様達がいなかったら、冬は越せていなかったと思います。あの時は優しくしてくださってありがとうございます。本当に。……他の皆さんはお元気ですか?」


――その笑みが俺を刺す。

俺には見せたことのない、懐かしむような色合い。


「……。……そうですね、元気にしておりますよ。それぞれ今は配置が違っておりますが」

リカリオは一瞬、喉に何かを詰まらせたように言葉を止めた。だがリシェリアにそれを悟らせないよう、すぐに会話を滑らせていく。


……気になる。

あのわずかな躓きは、何かを隠している。

後で必ず話を聞こう。

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