心を溶かすおまじない
夕方の作業をほとんど終えて、片付けて後は解散するだけとなった庭。
土の匂いに夜露の匂いが混じり、冷たい風が通り抜ける。
片付けしているリシェの姿が庭の端に見える。月明かりに白い髪が溶けて、影だけが長く伸びていた。
これからする事を思うと少し緊張はする。ため息をひとつ、頭をかいてから、手招きした。
「はぁ。リシェ。こっちきな」
「うん」
素直に立ち上がったリシェが近づいてくるのを見て、胸の奥に何かがゆるむ。
「明後日からテラリウムを預かるだろ。聞いときたいことがある。追っかけるから作業小屋に行っててくれ。あと、ジェス。悪いけど見張り頼む」
リシェを先に小屋へ押し込み、背後に声をかけた。
「誰か来そうなら、合図してくれ。……今から、いかがわしいことするからさ」
半分冗談で小声に吹かした。
内心はもっとずっと真面目だ。けど、やること自体は――聖女と兵士がするには、あまりにも距離が近い。逸脱と言われれば否定できない。
それに、ああ言っておけばジェスも空気を読んで近寄らない。
「え、は……はい」
ジェスが顔を赤くして頷くのが目に入った。たいしたことはしないし、吹聴するような奴でもないから、まあ、覗かれてもいい。
「セラン?なにが知りたいの」
リシェは、すでに小屋に安置されたテラリウムを覗きいていた。俺が合流したことに顔をあげた。
その青い目に映るのは不安と戸惑い――俺は胸の奥がざらりと鳴るのを感じた。旅のことを思い出すだけで不安を感じてるんだと分かってしまう。
それなら、真面目にちゃんとしよう。気恥ずかしさを誤魔化すように、腕を回して体をほぐし、気合を入れる。
「よし、やるか」
リシェの背後に寄り――膝を掬うように軽く持ち上げた。
この小屋で寝かせるわけにもいかない。俺の胸に頭を寄せさせるには、横抱きがいちばんいい。
「ちょ、ちょっと!?なに!」
驚いた声と一緒に、軽い体が腕の中へ収まる。
この小屋で寝かせるわけにもいかないし、胸へ引き寄せるなら横抱きが一番早い。抱え込んだ瞬間、ふわりと花と草の匂いが鼻先を掠めて、頭の奥がじんわり痺れた。
……やっぱり落ち着く。
作業台に腰を預け、幼子でもあやすみたいに抱き直す。
「よしよし。俺はここにいるぞ」
背中から手を滑らせ、髪を撫で付け、胸に寄せる。
俺の心臓の音を聞かせる。
うなされている夜と同じように。
「俺は生きてるよ。リシェ」
低く優しく囁く。
「このことちゃんと覚えてから行け」
リシェがぴたりと抵抗を止め、胸に顔をうずめるのがわかった。察したんだろう。サフィアが何を言ったかも、俺が何を思っているかも。
あの災害から帰った後から、リシェは夜中、泣いて飛び起きては俺が生きてるかを探して確認した。俺が気づかず寝ていれば、ゆすって起きて返事をするまで喚いた。
だから俺は、胸に耳を当てさせた。
鼓動を聞かせた。
生きてるって、音で分かるように。
そうすると、こいつは少しずつ落ち着いていった。悪夢から戻ってきて、安心したみたいに眠る顔を、俺は何度も見てきた。
だから――この動作は、リシェだけじゃなく俺自身も救う。
リシェが腕の中にいる。温度があって、呼吸してる。
それだけで、胸の奥の焦燥が静かになる。
「うん……思い出した」
小さな声が胸に落ちる。
「でもちょっと脈が速いかも。遅くしてくれない?」
……無理だ。
抱えているだけで筋肉を使っている。それに何より大好きな女を抱えているんだから、収まるわけがない。
息を吐きながら軽く拳骨を落とす。
「仕方ないだろ。俺のせいじゃねえ」
「でも久しぶりで。安心した。ありがと、セラン」
リシェが瞼を閉じ、俺の心音に心を預ける。
その顔に光が落ちて、唇の端がほんのわずかに上がっているのが見えた。
「ああ」
俺も小さく返事をして、幸せを噛み締めた。
……しばらく静かな時間が流れた。
外ではジェスの足音が微かに動いた。律儀に見張ってくれている。
「ありがとう、もう大丈夫」
その一言に、リシェの目の奥にあった不安げな影はすっと消えていた。
胸の奥がじんわり温かくなる。俺のしてきたことがちゃんと届いた、そう思えるから。
「はいよ」
それならいい。
旅立つのが惜しいのは、あいつだけじゃない。触れていると、俺のほうが離したくなくなる。
…… 本当は、いつまでだって抱いていたかった。
だから、勢いをつけるみたいにさっと下ろした。
「はー。重かった」
軽口みたいに吐き捨てる。
本気なわけがない。むしろ軽すぎるくらいだ。
「今はきちんと食べてるからね……そんなに重い?」
思いのほか心外だったらしく、不貞腐れたような声が返ってくる。
その唇の形を見た瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
「はは、嘘嘘。もっと食って太んな」
笑いが込み上げた。
頭に手を置いて宥めるみたいに軽く撫でた。
その髪の感触に、俺の指先が勝手に馴染んでいく。
本当は、もっと肉がついていい。
抱えたときの重みは俺にとって“幸せな重さ”だ。そのほうが絶対いい。腰とか胸とか抱きしめたときの柔らかさが増えていくなら、それは、そのほうがいい――なんて考えて、慌てて思考を打ち切る。
危ない。
「あ、最後に。せっかくだから、おまじないもお願い」
リシェが微笑みながら瞼を閉じて俺に向き直った。
まるで口付けを強請るような姿勢。
その仕草に一瞬息を止める。
……こいつ。本当に唇を奪ってやろうか。
心の奥ではそう呟きながら、喉の奥で笑う。
リシェが言ってるのは、母が良くしてくれていた、寝る前の決まり事だ。
寝る前に、両瞼に一つずつ、悪いものが入り込まないようにと口付けを落とす、安眠のまじない。
兄どころか親扱いかよ。納得いかない。
だけどせっかく前向きになれたところに水を差すのは気が引けた。
帰ってきたら覚えておけよ。
「はぁ……動くなよ」
そっと瞼へ唇を落とす。二度。
悪夢じゃなく、俺に恋する夢を見ろ。
「……うん。ありがとう。満足」
「ん」
本当なら、このあと頬へお返しの口付けをする。
それが寝る前の流れだった。
小さい頃は何にも考えてなかったが、今ではリシェから自分へ返ってくる親愛の行動。
ひとときの期待で胸がときめく。しばらくはその余韻だけで楽しめる――そう思っていたのに。
「じゃあ、もう出ようか。ジェス待たせてるだろうし」
こいつ、自分だけ満足して終わる気だ。
……は?
期待が綺麗に空振った。
「おい……お礼はないのかよ」
俺は自分の頬を指した。
「え。あれはお礼じゃなくて、おやすみの挨拶でしょ?」
「は?お礼だろ。何でもしてもらえて当然じゃないだろ」
「まあ。いいけど」
いや、寝なくてもしてほしい。俺の胸に残っているこの熱を、どうにかしてほしい。
大袈裟に腕を広げると、リシェが戻ってくる。
不満だから、終わった後で抱きしめてくすぐり回してやろうか――そんな悪戯心がよぎる。
リシェが返してくれそうなので、とりあえず目を閉じる。
頬に意識を集中して、堪能するために。
「あ」
その声と一緒に落ちてきた感触は――頬じゃなかった。柔らかい感触が、唇の真ん中へ触れる。
ほんの軽く。
ちゅ、と。
唇と唇が合わさる。
「!」
は!? え?
「ごめん、ずれちゃった。けど、別にいいよね。じゃあ、出よう」
いや、待て。よくない。いいけど、いや。いいんだ。
だけど確認……何でもいい。もう一回してくれ。
そう言いたかったけど、判断が遅れ、リシェはもういなかった。
先に外へ出てしまう。
「ごめん、ジェスお待たせ。ありがとうね」
「いえ……大丈夫ですよ」
戸外でリシェとジェスの会話が聞こえる。
俺は追い縋れない。
……はぁ。
どうしてこんなに翻弄するんだ。
胸の奥がぎゅっと掴まれるように熱い。多分、顔は真っ赤になっているし、動悸がすごい。
「……セランさん?」
気遣わしげなジェスの声がかすかに届く。
「あ、後から行く。先に帰ってくれていいから」
なんとかそれだけ返した。
声が自分のものじゃないみたいにかすれていた。
世界観としては
挨拶としての「触れない頬へのキス」と、親しい人とする「触れる頬へのキス」2種類があります。




