悪夢は渦巻く波の中心
※被災描写があります※
俺は家を飛び出して走り出した。
父が必死に止めたけど、耳に入らなかった。どうせ言われても聞けなかった。
唸り声が聞こえて横を見ると、ウルが一緒に転がり出てついてきてくれていた。
ウルはリシェが好きだった。いつだって尻尾を振って彼女のあとをついていった。だからきっと、探すのを手伝ってくれると思った。
町へ向かう道は、途中から湿気り始め、近づくにつれてぬかるんでいた。靴が泥に沈んで、何度も足を取られた。乾いたところは逆に真っ白で、粉みたいな砂が舞って息が苦しい。暑いはずなのに、風は冷たくて、冬みたいに背中を撫でていった。
サリーナは――言われてたみたいに丸ごとなくなってはいなかった。
けれど子どもの俺の目には、それが「なくなった」と同じに見えた。家は崩れ、瓦礫が積み重なり、道は裂けて、潮の匂いと煙とでむせかえった。後から思えば「崩壊」と呼ぶのが正しいのだと知ったけれど、その時はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
それでも、人はいた。
傷を負ってうずくまる者、血にまみれて泣き叫ぶ者、家族を呼びながら瓦礫をかき分ける者。生きている声もたくさんあった。
だけど何もかもめちゃくちゃで。リシェの家がどこだったかなんてもう、わからなかった。
「ウル。リシェを探せ」
声が震えていたけど、ウルはすぐに鼻を鳴らして駆け出した。
俺も必死で瓦礫をかき分けた。石で指が切れて血がにじんでも構わなかった。喉が焼けるように痛くても叫び続けた。
「リシェ! リシェリア!」
ただその名を呼びながら、壊れた街を走り回った。
地面が時おりぐらりと揺れていて、うまく走れなかった。たまに浜の方にはいつもより大きな波が打ちつけてくる。
足場はぬかるみと瓦礫でぐちゃぐちゃに乱れていて、ちょっとでも気を抜けば転びそうになる。心臓は苦しいほど脈打っているのに、息がうまく吸えない。胸の奥で焼けるように熱く、喉は血の味がした。
養父母の家――町のかなり中心にある大きな屋敷。
幸い、土台が強かったのか半壊で済んでいた。けれど、外から見るだけで胸が重くなる。屋根は落ち、壁は裂け、積み重なった梁と石の間に血がこびりついている。屋敷に仕えていた使用人の何人かが、端で蹲るように生き残っていたが、目の焦点は定まらず、呆然と震えていた。
「リシェリアは!? リシェはどこだ!」
一人を掴んで叫んだ。声が裏返って、自分でも驚くほどの剣幕になった。
「潰されてなきゃあ、今もワインと一緒に地下だろうよ。こんな事が起きるなんて言うからだ……」
……地下。それなら。
保管庫の類は丈夫に作るものだ。無事なはずだ。胸を撫で下ろす一方で、怒りを呼び起こす答えだった。
数日前、怒り狂ったあの養父の顔を思い出す。
――仕置き。そんなもののために。
でも助けられる。そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
俺はウルと一緒に瓦礫をかき分け、地下への出口を探した。
犬の鋭い鼻は頼りになった。鼻を鳴らしては壁を引っかき、尻尾を振って誘導する。俺も必死で石を退かし、壊れた樽をどかした。
そして――見えた。
崩れた階段の先、潰れたワイン樽の汁で服や髪を濡らし、少し汚れたリシェ。
それでも青い目は光を失っていなかった。
「リシェ!」
声が震えた。飛びつくように抱きしめて互いに泣きながら、再会を喜んだ。
「村は……大丈夫だ」
しゃくりあげながら、必死で笑ってみせた。
「この家はも壊れちゃったし……こっそり一緒に帰っちまおう。な?」
そう言ってリシェの手を握って家屋を出た。
けれど――その時。
地面がまた唸るように震えた。
ウルが低く唸り、吠え立てた。
振り返ると、大きな壁の瓦礫が音を立てて崩れ落ちてくるところだった。
リシェを見た。比較的遠い場所にいる。
それでも破片が当たらないように、遠くへ突き飛ばした。
俺は――逃げ遅れる。怪我は免れない。
ウルは威嚇するように、俺と瓦礫の間に立ち塞がろうとしていた。
「やめろ……」
お前は避けられるだろ、リシェのところへ行けよ。
ウルも逃してやりたかった。だけど間に合わない。そして、目の前に迫る壁の影。
耳をつんざく轟音。
俺は目を閉じ、ただ覚悟だけを決めた。
――痛いのは、きっとリシェがなんとかしてくれる。
「……ラン、ウル。やだ!いっちゃいやだ!お願い!おねがい!」
気がついたとき。
胸の奥で、現実か夢か区別がつかないような、ぼんやりとした感覚があった。
想像していた衝撃も、骨の軋みも、鋭い痛みも――どこにもなかった。
けれど俺の服はぼろぼろで、あちこちに破れがあり、乾いた血に覆われていた。自分のものか、誰かのものかすらわからないほどに。
体を少し動かすと、関節がぎしぎしと軋むような違和感はあったが、それ以上はなかった。
……リシェが治してくれたんだ。そう思えた。
見回して視界の端に映った光景が胸をえぐった。
ウル。
半身が押し潰され、もう冷たかった。
リシェは血まみれのウルを抱きしめ、同時に俺をかかえ、息も出来ないほどに号泣していた。
「……っ……ぃっ!やだ……」
俺とウル、両方とも死ぬような怪我して、二つ同時には治せないから、きっと俺を助けてくれた。
そういうことだ。
「リシェ……リシェ、俺は大丈夫だ。生きてる」
声を絞り出しながら、泣きじゃくる彼女の肩を抱いた。
必死に伝えた。俺はここにいる。息をしている。
「セラン……ごめ…………良かっ……ウルは……」
「ウルが多めに引き受けてくれて、リシェが治してくれたんだ。だから俺は生きてる。村に連れて帰って埋めてやろう」
番犬として、全うしてくれたんだ。
言い聞かせるように言って、リシェを立ち上がらせた。
彼女の涙に濡れた青い目は、まだ焦点を結んでいなかった。それでも、俺はその手を強く握って一歩を踏み出させた。
俺がリシェの手を引き、敷地を出ようとしても、誰ひとり声をかけなかった。
咎める者も、止める者もいなかった。
……生きてるはずがない。
……死んでたようにしかみえなかった。
……あいつは魔女だ。
背中越しに、誰かの囁く声が聞こえていた。
その後は、夜明けまで歩いて村の近くまで辿り着いた。探しに来てくれていた父さんが見つけてくれて、連れ帰ってくれた。ウルを家の裏に埋めて、久しぶりに家族全員で丸まって眠った。
この後に、また家族は別れることにはなったけど、俺とリシェは生き延びて、今も共にいる。ウルの死だって寂しいが、悲しむより褒めてやることだと思う。
だから、リシェは、こんな過去にいつまでも怯える必要なんてないはずなんだ。少なくとも、俺はそう思いたかった。
……なのに。今でも、あいつは悪夢に苛まれている。
俺が死ぬ夢を見て、恐れて泣いているっていうんなら。
旅に出る前に、一度ちゃんと覚えさせてやらなきゃいけない。
俺は生きているって。




