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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
9章 悪夢
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夜の底に蠢く悪夢

※津波災害描写があります※

朝なのに、空はどんよりと重く曇っている。

灰色の雲が海と境を失い、空気の色まで濁していた。

風はやけに生ぬるく、肌を撫でるたびに気持ち悪い。


気がつくと、私は見知った浜辺に立っていた。

この景色は……よく知っている。


潮の匂い。

遠くに響くはずのうみねこの声は、聞こえない。

代わりに、腐った大鯨の臭気が鼻を突いた。

海岸に打ち上げられた巨体が、陽に焼かれ、塩気と腐臭が混じり合う。数日前に打ち上げられて、生半可な人数で動かせるものでもなくてそのままになっていたんだ。


漁師の人たちだけは元気に見えた。

裸足で砂を踏みしめ、声を張り上げて笑っている。

その声の明るさが、かえって異様に響いた。


塩田の白い浜が遠くまで続く。

光を吸わない白。

どこまでも乾いた白い光景が、世界を覆っていた。


――ああ。あの日、朝の光景だ。


またこの夢だ。


胸の奥がきゅうっと締めつけられる。

逃げたいのに、足が動かない。

わかっている。このあと、どうなるか。


わたしは、このあと――予感を抱えて広場に行く。


町にすぐに悪い事が起きるから、海から離れて欲しいと、広場で色んな人に叫んだ。


そして、聞きつけた養父母に引きずられて家に戻り、地下のワイン倉庫に閉じ込められて、その後丸一日を過ごす。

閉じられる分厚い扉、冷たい石の床。暗闇。樽の匂い。

そのときの恐怖が、今も肌の奥に残っている。


場面が、唐突に切り替わる。


耳を裂くような轟音。

床が揺れる。

積み上げられていたワインの棚が、しっちゃかめっちゃかに倒れていく。

瓶が割れる音、液体が弾ける音、何かが砕ける音。


反射的に頭を抱えてしゃがみ込む。

祈るように目を閉じた。


――けれど、どういうわけか。

破片ひとつ、わたしには当たらない。


代わりに、周囲はワインの匂いで満ちた。

ぶどう酒が流れ、赤黒く光って、床を覆っていく。

湿った音と、甘酸っぱい香りが、世界を飲み込む。

その匂いの中で、頭の芯がぐらりと揺れ、むせかえる匂いと息苦しさで、視界が暗転した。


また、切り替わる。


――いやだ。

次を見たくないのに、夢は勝手に先へ進んでいく。


瓦礫。怒号。砂煙。

炎が上がり、ぱちぱちと弾け、そして消える。

あとに残ったのは、潮と煤と血の匂い。

どこもかしこも、濡れて、ベタベタで、ぐちゃぐちゃだ。


いや。いや、いや。


見たくない。


小さいわたしが、瓦礫の下で、血溜まりの中にいた。

動かない。冷たく、白い。


――何してるのよ。

早く助けて。掘り出して。


声を上げても、声にならない。

喉が焼けるほど叫んでも、誰も聞いてくれない。


やがて、大人のような影が集まってくる。

目の前の瓦礫が少しずつどかされていく。

わたしは祈るように、息を止める。


そこにいるのは。

そこにいるのは――


瓦礫から現れるのは、■■■が■■■になってしまった……血に塗れたセランとウル。

わたしの家族。

繰り返し見る夢の中のあの日。何度も何度も同じもの。


でも、今回は違った。


そこにいたのは、もっと恐ろしい。

暗くて、顔のない、何か。

その「何か」が、こちらを覗き込む。


いや、いや、いや――

ここにいたくない。見たくない。覚めて。早く覚めて。


涙が止まらない。

頬が焼けるほど泣いても、夢は終わらない。


――生きてることを教えて。

お願い、セラン。

早く、声を聞かせて。


その光景を背にして、走る。

走っても、走っても、足元は血に沈む。

白い砂が赤く染まり、靴が重くなる。

それでも走る。


だけど、どれだけ走っても、

気がつくとまた、あの血溜まりの前に戻っている。


冷たい顔のわたしが、そこに立っていた。

もう動かない。何も言わない。


今のわたしは泣きながら、その彼女に助けを乞う。


「お願い……もうやめて」


服は血に塗れている。

ワインと潮と汗と涙、そして家族の血。

全てが混じって、重く、冷たい。


ここは嫌。

ここは嫌。

誰か――助けて。


……汗びっしょりで、目が覚めた。


「……ア様。リシェリア様!」


体を揺すられる感覚で、夢の底から引き戻された。

重たい瞼を上げると、目の前にサフィアの顔があった。


「あ……。サフィア……」


汗びっしょりで、寝衣が肌に張り付いている。

喉も胸も焼けつくように乾いていて、息が苦しい。

――また、うなされていた。


「久しぶりにうなされてしまいましたね。私が不寝番でよかったです」

サフィアは声を潜めながらも落ち着いた調子で言い、燭台に近づけた手元のカップを差し出してくれる。

 

「さ、少しお水を飲みましょう」


「うん。ありがとう」


薄暗い室内。揺れる橙の灯りが、サフィアの表情を淡く照らしている。まだ、深夜で寝入ったばかりのようだ。


気遣う瞳に導かれるように、私は差し出された水に口をつけた。冷たい水が喉を伝うたび、緊張で硬くなっていた体が少しほどけていく。


「お力を余しておられますか」

サフィアは、私が異能を使わずに溜めこんでいると、こうなることを知っていて確認するように聞いてくれた。


「ううん、それは全然。単純に新しいことや考えることが多くて少し疲れてるだけ」


――私には問題がある。


体が疲れている時。

心がざわつき、不安に揺れている時。

特に、力を溜め込んでしまっている時。


そういう時は決まって悪夢を見る。


夢に見るのは、いつも同じ光景。

過去にいたサリーナという街で遭った天災の記憶。


地鳴りがして、大波が来た。


私は地下にいてとりあえず無事だったけれど、閉じ込められていた。セランとウルになんとか助け出されたけれど、脱出の最中に崩れた瓦礫を前に、私を庇った二人がかなりの大怪我をした。

セランは治せたけれど、ウルは間に合わなかった。


……起きたことはそれだけ。


ウルのことは片時も忘れたことはないし、今でも私の横には変わらずセランがいる。過ぎた事だと頭ではわかっているのに、あの時の恐ろしさは今でも私を苛み続けている。


……昔は、泣き叫んで恐慌状態になっていた。

最初の頃は、喉が裂けるほど声をあげた感覚が残っている。現実と夢の区別がつかなくて、今いる場所から逃げ出したり、そうかと思えば引きつけたように震えが止まらなくて、翌日も丸一日、吐いたり熱を出したりしては、床から動けなくなっていた。


今でも悪夢を見れば、寝起きの体調はすこぶる悪い。汗に濡れて、涙で顔が張り付いているし、起きたときには喉が渇ききっていて、休んだはずなのに、脱水症状にかかったようにだるく疲れ切っているけれど、それでも、なんとか付き合ってきた。


一番間近に見てきたセランは、特に私の悪夢への対処にすっかり慣れてくれている。


流離う日々の頃は、彼がそばにいれば安心して熟睡できた。

一人では目を覚ますことすらできないのに、セランの手で揺すられ、名を呼ばれれば、不思議と夢の底から引き上げられる。起きれば、夢で今にも死にそうだったセランは、五体満足で生きていることを教えてくれた。


逆にセランが、兵士の訓練所に行って三か月離れて暮らした時は最初の夜は不安と心細さに、しばらくどうにもならず悪夢を見続けた。

私は聖女になれないかもしれないと、アスティに心配をかけたくらいだった。

そのことを思い出すと、今も胸の奥が少し痛む。


もちろん、今の城住まいでも、セランを呼ぶことなんて許されない。今夜みたいにわかってくれている侍女に介抱してもらい乗り切ってきた。

それでも、同じ部屋、同じ寝台、同じ場所で過ごすうちにここも安心できる場所だと心が慣れてきたのか、悪夢の回数はずいぶんと減ってはいた。


きっと時間が解決してくれる、そう思って生きていくしかないと諦めていた、

……けれど今夜の胸の奥は、まだ悪夢の余韻にざわついたままで、つい言葉が漏れる。


「多分……外遊がね、ちょっと不安なの……」


数日後、一週間ほどだけど、王都を離れて外遊に出ることが決まったことを知らされたばかりだった。

庭のことはセランとジェスたちに任せて、カイルや数人の祭祀官、警護の方も随行するから、何ひとつ心配はいらないと皆が口を揃えて言う。


「旅行気分で行っておいで」と、アスティも軽く笑ってくれた。充分に配慮されているとわかっている。それなのに胸の奥では、じわりと小さな不安が広がっていた。

 

きっと、やっと慣れた場所からまた離れることに、心のどこかでその不安を抱えている。その影が夢に滲んで、今こうしてまた夜を乱してしまったのだと思う。


サフィアはすぐに微笑んだ。

「大丈夫ですよ。私が一緒です。旅程では相部屋させていただきますから、お気兼ねなく声かけください」


その声音はあくまで穏やかで、安心させるように柔らかかった。

けど私は胸の奥で、ほんの少し躊躇いを感じていた。迷惑をかけたくない、という思いは消えないままだから。


「一晩くらいは眠れなくてもなんとかなりますよ。いっそ夢を見ないほど体を動かしたりするのも良いと聞きます。これを機に小説を一気に読破して……」

在らん限りの発想で夜の過ごし方を考えてくれるサフィアの笑顔に救われつつも、どこかで自分の弱さを責めてしまう。


その思いが、不安をまた大きくしていくのを、私は今は忘れようと努めた。

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