試練
春に備えて、庭の木々は硬い蕾をつけ始めていた。
日差しはまだ薄く、土の中には氷の粒が残っている。けれど、その下ではもう見えない春の支度が始まっているのだ。
枝の先端の小さな膨らみ、土の隙間から覗く芽。
そのどれもが、生きている。
僕たちはその営みを助ける役目を与えられている。冬の眠りから目覚めようとする命を、少しでも早く光の下に出すための仕事だ。
手袋の中で指先がかじかみ、息が白く煙る。
剪定ばさみを置いたちょうどそのとき――。
「ジェス。ちょっとお話し聞いてもいい?」
柔らかく響く声がした。
作業のキリが良いタイミングを見計らったように、聖女――リシェリアさんが僕のほうを見て立っていた。
「はい、どうしました?」
顔を上げると、光を反射する銀の髪が風に揺れた。
まっすぐに差し出された視線はいつもどおり透明で、何を言い出すのかまるで読めない。
拍子に汗が頬を伝い落ちる。慌てて袖で拭おうとしたところへ、差し出される白い布。
「これ、使って」
……眩しい。
差し出された手に、思わず感謝よりも畏れのような気持ちを抱いてしまう。
礼を言おうとしたその瞬間――。
「……こないだの。セランの恋人が私?って言ってたけど」
「ゲホッ!!」
盛大にむせた。
喉の奥が焼けるほどの咳。
呼吸が戻る前に、背中を撫でてくださる手が温かくて、余計に焦る。
「だ、大丈夫です。は、はい……」
涙目になりながら、なんとか返事をする。
心臓が跳ねている。冷たい空気の中で、顔だけが熱くなっていく。
なぜ、どうして、その話題をここで?
……僕は悟った。
今日、この場を乗り切るには、絶対に失言してはいけない。
大事なのは、リシェリアさんとセランさんの関係を“変えない”こと。
下手な言葉ひとつで、二人の間に波風を立てるようなことはできない。
でも、少しは……ほんの少しだけ、リシェリアさんに自覚を持ってもらうのは悪くない。
いつまでも鈍感でいられると、見ているほうが落ち着かない。
「恋人の定義ってなにかな」
……そっちか!!
肺がもう一度ひっくり返るかと思った。
またむせる。
この人は、わざとやっているんだろうか。
天然というより、狙いすましたかのような無垢。
僕は顔から火が出そうになりながら、必死に言葉を探した。
「え、ええ。えーと……」
視線が宙を泳ぐ。
“恋人”という言葉を、どう説明すればいい?
好きあって、一緒にいて、他の人より特別で……。
だめだ、頭の中がやたら現実的な映像でいっぱいになる。
貴族のご令嬢になる時に、こういうことは教育されるものじゃ……ないのか?
「ごめんね。ジェスがそう思うってことは、知ってるのかなって思ったんだけど……。わからなさそうなら大丈夫。わかりそうな人に聞くね」
ああ、優しい笑顔。
……いや待って。
平民から聖女になられて、まだ日も浅い。
確かにそういう知識を受ける時間はなかったと聞く。
でも、“わかりそうな人”って誰を――
「カイルに聞けばいいかな……」
――やめてください!!!
「いやいやいや、待ってください! お願いします!」
全力で制止する。
心臓が一瞬で凍りついた。
あの人にそんな話題を振ったらどうなるか……!
間違いなく、面倒なことになる。
あの理屈っぽそうな祭祀官様は、きっと「体験をもって教えよう」とか言いかねない。
セランさんに知られたら、僕は命がない。
……僕が、なんとかしないと。
「大丈夫です。ええと。簡単にいうと、お互いを好き合ってる二人組のことをいいますかね」
言いながら、自分の声が震えているのが分かる。
慎重に、慎重に。地雷を避けながら説明する。
「告白して、お互いの気持ちが同じか確認してから、成立することが多いと思いますが……ないこともあります」
リシェリアさんは、こくこく軽く頭を振り、聞き入ってくれている。
青い瞳が真剣で、こちらの言葉を一語一句逃さず拾ってくる。
……聖女に授業をしているような気分だ。
「恋人は、繁……ええと結婚相手とは別なんだよね?」
繁…?変な単語を聞いたかもしれないが取り合えず流した。
「そうですね。結婚は制度ですが、恋人は、特に決まりがあるわけじゃないです。平民だと恋人が結婚相手になることも多いですけど。恋人っていうのは、知り合いや友達よりも、一歩親密で、特別な事を許しあう……関係ですかね」
ああもう。恥ずかしい。
持っている知識を総動員して、ぎりぎりの線で説明する。
「それ。恋人はどんな事をするのか教えてほしいな」
リシェリアさんの目が輝いた。それが知りたかったのだというように。
……そうか。やっぱりそういう事になるのか。僕は試されている。
「貴族と平民で違いはありますが。手をつないだり、贈り物や言葉で愛を伝えあったり。抱き合ったり……口付けし……たりとか」
言葉が詰まるたびに、声が小さくなっていく。
頬の熱が冷えない。
目を逸らしても、白い息の向こうにその穏やかな顔があって逃げ場がない。
「あ、あとは。……その先は、……人によって、色々ですかね!」
共寝、閨、夜伽……他にも様々な単語は浮かんだものの、どれ一つ言葉に出せる気がしなくて精一杯ぼかした。
流石に、これ以上は無理だ。
「なるほど」
まるで書物の中の理屈を整理するみたいに、リシェリアさんは静かに頷いた。
その無垢さが、少し怖い。
「ありがと……でもそう言うのって、外から見てわかるもの?」
ああ、やっぱり。
僕が最初に口を滑らせた“恋人なのか”の真意を知りたかったんだ。
「みんなの前で私、セランと抱き合ったり、口付けたりしているところは、多分。見せていないよね」
……多分、っていうことはしてはいるのだろうか。
いやいや、考えるな。思わずした想像を振り払る。
リシェリアさんは、外から見える「距離」や「空気」の意味を本当に知らない。
誰かが恋しているかどうかなんて、表情や仕草に現れるもので、理屈じゃ説明できない。
「はい、見てはいません。……でもそう仰るなら、違ったんですね。お二人の仲が良いのでそうかもな、と思っていました。勘違いしてすみません」
さて――ここからが本題だ。
間違えば、地獄行き。
僕は喉を鳴らして息を整える。
その裏で、――ああ、やっぱりそうなんだな、と拍子抜けする。
リシェリアさんは恋を知らない。
あのカイル様の燃えるような視線も、セランさんの全身からあふれ出る感情も、全部が“普通”として受け止められている。
まるで、熱を熱と認識していないみたいだ。
心の温度に鈍いというか……いや、たぶん、そんなものを超えて、彼女の中ではすでに“特別”が日常なんだろう。
――リシェリアさんをものにするのは、本当に難しそうですよ、セランさん。
胸の内で、ため息まじりに呟く。
「うーん。言われてみれば、近いものはあるかもしれないけど、違う感じがするかな。家族だし。その特別なことって言っても、家族ならすることばかりでしょ?それに。セランになにか言われたこともないよ」
リシェリアさんはそう言って、ほわりと笑う。
家族、か。
たぶん、それがこの人にとって最上の信頼の証なのだろう。
……でも、それを恋とするのは……セランさんの苦労はまだまだ続くな。
「ジェスと私だって、仲がいいじゃない?それに、こうやって。……手なんていつでも繋げる」
え?
と思う間もなく、リシェリアさんが僕の手を取った。
指先が柔らかく、ひんやりして、少し湿っている。
なんでもないように。まるで握手でもするように。
「このくらい、そんなに特別なことじゃないでしょ?」
――ま、まずい。
作業で偶然触れるのと違って、これは……意識してしまう!
頭の中で鐘の音が鳴りっぱなしだ。
「抱擁や口付けも、初めて会う人に挨拶ですることもあるよね」
そう言って、リシェリアさんが少し顔を寄せた。
その瞬間、空気が変わった。
頬に触れない距離で、唇が音を作る――“ちゅ”。
その小さな音が、耳の奥に直接届いて、脳が一瞬止まった。
銀の髪がかすめて、甘い花のような香りが鼻腔をくすぐる。
「違う?」
――わああああああああああああ!
頭の中で、内心悲鳴を上げる。
なにこれ。生きた心臓を握られたみたいだ。
「ひえ……」
声にならない音が漏れる。
体が固まって動けない。
頬に残るのは、ただ空気の熱だけ。
それを確かめるように、手を頬に当てた。
確かに、確かにするけど。そういう挨拶の奴じゃない。
でもそんな話を教えてしまったら。そしてうっかり実演されてしまったら戻れなくなってしまう。
この人……だめだ。天然という名の火薬庫だ。
なんとかしないと。犠牲者が増える。
喉が乾いて、言葉がうまく出ないけれど、必死に立て直す。
行動の話では、僕の心身が持たない。
少しでも話を“概念”の方に戻さないと。
「えと……行動じゃなくて……その裏にある気持ち……恋してるかっていうのが大事かなと」
なんとか振り絞った言葉。
けれど、リシェリアさんは首をかしげる。
「それこそ、外から見てもわからないじゃない?」
ああ、もう。
どうしてこんなに真剣に返してくるんだ。
無垢とかそういう次元じゃない。これは、破壊力が強すぎる。
「二人の距離が近いとか、空気感とか。……表情とか。外から見て分からない人もいますけど、わかる人はよくわかります」
リシェリアさんは、誰にでも優しい。
けれど、心の奥の一番柔らかい場所だけは、見えない。見ようとすると霧みたいに掴めない。
だから神秘的で、だから誰もが惹かれる。
「リシェリアさんはあまり顔に出ないですね。こないだのは、それで。つい、聞いてしまったんです。すみません」
よし、これで僕はただの空気の読めない子供だったことで済む。
「ああ、そっか。だから聞いてきたんだね」
そう言って笑った。
春の日差しを反射するような笑顔――まるで花がほころぶ瞬間みたいで、
……危ない、魔性だ、これ。
「たとえば、わかりやすい人は誰かいる?私も見たいな」
……やめて、そうやって無邪気に聞かないで。
僕は、セランさんの気持ちは理解できる。
リシェリアさんにとってセランさんは家族。でも、セランさんにとっては……。
そして、カイル様なんて、見れば一瞬で恋してるのがわかるくらいだ。
なのに、これだけ近くにいて、それがわからないなら――リシェリアさんにはもう、誰の恋も見えないのかもしれない。
どう答えれば角が立たないだろう。
少し口を開きかけたその時――。
視界の端で、見たくない赤が揺れた。
セランさんだ。
庭の入り口から、こっちに向かって歩いてくる。
あの髪、あの歩き方。間違いない。
――今、この話を聞かれたら、絶対に誤解される!
「ご、ごめんなさい。これ以上は今日は!」
顔から血の気が引くのが分かる。
慌てて両手で顔を覆った。
だめだ、もう何も言えない。
「わかった、大丈夫だよありがとう」
リシェリアさんが少し驚いたように頷いてくれて、救われた気持ちになる。
「作業に戻ります」
深呼吸をひとつ。
気まずさをごまかすように頭を下げ、掃除道具を取って立ち上がる。
逃げるように背を向けながら、言葉を継いだ。
「あ、リシェリアさん。この話……あんまり他の人に聞かないほうがいいです……繊細な話なので」
そして、もう少しだけ小声で。
「僕のせいなので、僕ならいつでも聞きますから。あとはサフィアとか、アスティ様なら……」
――本当は、最初から女性に聞いてほしかったんだ。
でも、起点が僕だから仕方がない。
それに……。
あの“口付けの音”、あれくらいの幸運、たまにあっても罰は当たらないだろう。
「ん、わかった。そうするね。……私たちの秘密にしよう」
……“私たちの秘密”。
その一言で、胸が跳ねた。
やめてほしい、本当に心臓に悪い。
「何の話してたんだ」
「セランにはまだ内緒。今ね、ジェスに勉強教わってたの。私が身についたらセランにも教えてあげる」
「なんだそりゃ。ま、期待しないで待っててやるよ」
僕の背中で何気ない会話が広がっていく。
――僕はセランさんの味方だ。
誘惑には負けない。
きっと。たぶん。おそらく。




