春への期待に蠢くもの
執務の隙間の時間。
窓の外、裏庭ではのんびりと手入れをするリシェリアの姿がある。柔らかな陽光の下、土に触れる手つきはどこかぎこちないのに、それでも丁寧で、指先に意識を集中させているのが遠目にもわかる。その仕草の一つ一つに、妙な律義さと真面目さが滲んでいて、見ているだけで奇妙な安堵を覚える。その様子を横目に、俺は机に向かったまま思案に沈んでいた。書類は開いたままだが、視線はそこに落ちていない。文字は認識しているはずなのに、意味として頭に入ってこない。
外には、増えた庭の面積に対応するため、補助員として新しく入ったバージェスとかいう茶色い髪の若い少年兵の姿もある。リシェリアと並んで何やら言葉を交わしているらしい。
話している内容までは聞こえないが、朗らかに明るく楽しげにしているのがみえる。ときおり手を止めて顔を向け、互いに笑っている。距離感も、初対面のぎこちなさはすでに薄れ、慣れて砕けたそれへと移りつつあるのが見て取れる。
本来なら一兵卒なのであの態度は咎めるべきだ。そして、子供といえど男なのも面白くない。立場を考えれば、一定の線引きは必要なはずだと理屈では理解している。
だが。年齢を考えれば問題視するほどでもないし、そもそもアスティの子飼いでメイスン家で交流があったというので。
それならばアスティから色々言い含められているはずだ。あの女が、何も考えずに人を近づけるはずがない。俺に『一目惚れするな』などと余計な布石を打ってきたアスティなのだ、いまさらそんな抜けた事態を許すとは思えない。
よしんばあったとしても。ああいう類の牽制は、俺が動くよりも、あの獣の方がよほど適任だ。セランの存在がある限り、余計な芽は早々に摘まれる。あの本能的な警戒と排他性は、こういう局面では有用だと認めざるを得ない。
意識を引き戻す。
先日の虫の問題は、一日や二日で片が付く類のものではない。発生原因も経路も不明瞭で、現場対応だけではどうにもならない領域にある。報告書に並ぶ断片的な情報をいくら積み上げても、決定打にはならない性質のものだ。あれは調査部門の仕事だ。専門の連中に任せるしかない。俺たちが手を出すべきではないし、出せる範囲でもない。
俺たちには、俺たちの役割がある。
思考を切り替える。
机上の書類に意識を落とすと、次の予定が視界に入る。整然と並んだ行程表の文字列が、ようやく意味を伴って認識され始める。
俺たちの次の任務は、前年から決まっていた外部の分霊樹巡りと、その近辺の関連施設の祭祀、そして慰問だ。
去年、エリシアナが施した治癒の経過観察も兼ねている。国土と根は対を成す存在ではあるが、あくまで縮図だ。現実には微細なずれや差異が必ず生じる。それが歪みとなっていないか、補修の抜けがないかを確認する必要がある。数値としては安定していても、局所的な異常は見逃されやすい。
つまり――表向きは祝福の巡礼だが、裏側では“異常の有無を探る巡察”でもある。
聖女が訪れる場所は、必ずしも安定した地とは限らない。むしろ、何かしらの問題を抱えている可能性の方が高い。だからこそ呼ばれる。
だが、それを表に出すわけにはいかない。
聖女の訪問は、その土地の人間にとって祝福であり、救いでなければならない。忌避や恐怖を連想させる存在にしてはならない。その印象一つで、信仰は容易く揺らぐ。
だからこそ現地では、市民との触れ合いを意図的に設ける。慰問を行い、奇跡を見せる。必要とあれば多少誇示することも辞さない。人々に“見せる”ことで、聖女という存在を理解させ、憧憬の対象として定着させる。視覚的な記憶として刻ませる。
それは宗教であり、同時に政治であり、経済でもある。
この視点は、担当官になって初めて明確に意識したものだった。
かつての俺は、聖女を“飾り”と断じていた。権威付けのための道具、あるいは民衆を懐柔するための装置だと。合理性だけで切り捨てていた。
今思えば、浅い認識だった。
エリシアナに対しても、同じように見下していたのだろう。実務能力の乏しさばかりを見て、その役割の本質を理解しようとしなかった。人々の希望として存在すること、その維持にどれだけの意味があるのかを。
遅れて気づいたことに、軽い自嘲が胸をよぎる。視線がわずかに揺れ、紙面の一点に固定される。
手元の予定表に視線を落とす。
行程、訪問先、対応予定、宿舎の配置。そして同行者名簿。細かく整理されたそれらは、無機質であるはずなのに、妙に現実味を帯びてくる。
来週からの外遊は、まずは馬車で数日の近隣領。年始ということもあり、新任の聖女にとって負担の少ない、軽めの日程に調整されている。だが、それでも城外での長期滞在には変わりない。
その中で、目に留まる一行。
当たり前のことだが、そこにセランの名はないことに安堵する。
奴がリシェリアの身内といえど、入隊したての新兵に正式な公務の要人警護は与えられるわけじゃない。
御者や従者を除けば、規模に合わせた騎士階級の指揮官とその部隊で構成されるのだから。
そして、外泊の日程。泊まりであることが意識の端から離れない。
日中だけではなく、夜も同じ空間で過ごすことになる行程。護衛や随行はいるとはいえ、城内よりも距離は近く長い。物理的にも、心理的にも。
書類に落としていた視線が、わずかに揺れる。
不謹慎だと理解している。任務に私情を混ぜるべきではないことも、十分に承知している。理屈は明確だ。
それでも――
胸の奥で、抑えきれない期待が、春を待ちきれない新芽のように。静かに、しかし確かに鼓動を打っていた。




