目覚めを待つもの
「いないなぁ……」
私は、春のための土づくりをしながら、頭の中では先日石室で見た“虫のような何か”を思い出していた。
現実の冬の庭では、あまり虫の姿はみかけない。彼らは獣と違って寒さに強い体じゃないからだ。落ち葉や土の中で、冬に見つからないように、春がくるまで必死に耐え忍んでいるはずだ。
この間の虫の影も、きっとそうだった。私が何か勘違いさせなければ、まだ起きないつもりだった。
じゃあ……彼らは何を待っているんだろう。
今日はセランは当番勤務で庭に来れない日で、他愛ない雑談がないせいか、つい色んなことを考えてしまう。
「リシェリアさん。どうかしました?」
そんな声にハッと顔を上げると、庭の木戸を開けてジェスが入ってきていたところだった。
私が手を止めて考え込んでいたのを、首を傾げて不思議そうに見ていた。
「あ、ううん。何でもないよ。ご機嫌よう、ジェス」
ジェスは身内ではあるけれど、祭祀庁所属ではない。特に大樹の深部について普通の人に共有することは、厳禁で――誤魔化すしかない。
「はい。今日もよろしくお願いします!セランさんから引き継いでる事からやっていきますね」
ジェスは手つきも軽やかに仕事を始めていく。鍬をさして土を返すたびに瑞々しい匂いが立ちのぼった。
今日みたいにセランや私が来られない日は、代わりにジェスが来てくれることになっていた。まだ幼さの残る顔立ちに、陽に焼けた健康的な肌。三つ年下で、兵士としてはまだなりたてだけれど、メイスン家での下働きの経験は長い。勘所の良さと素直な気質に、素朴な笑顔が可愛く、当時の使用人の人たちから、弟分として愛されていた。保護された当時の私とセランにも、年が近くて気安く話せる相手としてよく交流してくれていた。ここ城内においても、他人の目がなければ気安く話せる貴重な相手だった。
今は将来のことを考えて、アスティの従士となる為に、軍部に兵士として出仕する事になったのだと聞いている。
……将来。
ジェスは自分のやりたい事、やるべき事に向けて動いている。あの虫も……来る未来のために何かを準備してる?
「ええと。リシェリアさん……もしかしてやり方、間違ってます、かね」
再び、思案に耽ってしまっていた。
気がつくとジェスが不安そうに、私の視線に入ってきていた。
どうやら私は、棒立ちでジェスの掘り返す手元を見つめ続けていたらしい。
だめ。今は、目の前のことをやらなくちゃ。不安は移るものだ。ジェスに心配をかけても良くない。気を取り直して、安心させるように言葉を尽くした。
「ううん。大丈夫だよ。そういうとは違うの。……ジェスの仕事は丁寧でいいなって感心して見てたんだ。気も利くし、セランみたいに手順を飛ばしたりしないから、すっごく頼りになるなって思ってるよ。ありがとう」
特に、他の部署の人といつの間にかやり取りをして、協力を取り付けてくれたりするようなことは、人懐こい彼の特技だった。食堂の厨房から堆肥用にと調理くずをいただけることになったのはとても助かった。
思ったことをそのまま口にすると、彼は一瞬きょとんとした後、慌てたように笑いながら首を振った。
「やめてくださいよ、そんな。僕は出来る事をしてるだけなんで。……あんまり褒められちゃうと、セランさんにも怒られちゃいます」
……何でセランが?
不思議だった。何を怒るというのだろう。セランだってジェスの事を頼りにしているのに。
「どうして?本当のことなのに」
ジェスは困ったように視線を泳がせ、少し考えてから口を開いた。
「えーと。うーん。自分の恋人が他の男を褒めてるのを聞いたりしたら……多分ちょっと……嫌なんじゃないかなって」
「……恋、人?」
その言葉に思わず手を止める。心の中に空白が生まれた。馴染みのない言葉に、意味が一瞬浮かばなかった。
恋人って何だっけ。恋人、恋の相手。
……そうだ。エリシアナが欲しがっていた存在。彼女が読む小説の中でよく主題になるもの。
お互いが恋し合う相手のことだ。
そして、私にはまだ恋人なんていない。
……ん? じゃあジェスは誰のことを言っているのだろう。
「あれ、え?」
ジェスも、私の反応に目を丸くした。
「あ、ジェスの恋人が嫌っていうことかな、ごめん」
慌てて言い直したけれど、それも違ったらしい。
「いえ、あー。えぇっと……セランさんとリシェリアさんって恋人同士……じゃなかったんですかね」
「私とセラン?」
そんなふうに思われていたんだ。
ジェスは、アスティから私たちの成り行きを詳しくは知らないのかもしれない。私とセランは血の繋がりだけはないけれど、物心ついた時から一緒に育って、家族のように寄り添って生きてきた。
そういうのも、外から見ればそう見えてしまうのかな。
「違うよ」
エリシアナやサフィアの薦めで読みはじめるようになった小説に出てくるような、あんな甘くて優しくてふわふわしているような関係は、私は知らない。
私とセランは……古くて、複雑で、曖昧で。それでも深く馴染んでいて……言葉にするのは難しい。
「あー。うーん。そうなんですね……」
ジェスは、どう答えたらいいかわからないという顔をして、申し訳なさそうに眉を下げた。
まるで何か失敗をしてしまったみたいに。
ジェスが気まずそうに道具を片付けて帰っていった後、庭には風の音だけが残った。
私はまだ手を動かす気になれず、石段に腰を下ろして頬杖をついた。土の匂い、草の揺れる気配、鳥の声。いつもと変わらないはずの庭が、妙に遠く感じられる。
「恋人……。恋。」
小さく口に出してみる。
恋。
小説の中で描かれるのは、相手に焦がれて、嬉しくて、楽しくて。なのに苦しくて、切ない。それだけが世界の全てになるような熱に浮かされること。
恋人。
過程を越えて互いが通じ合い、甘さと優しさに浸って、お互いの感情を分け合いながら楽しむ関係。
文字の上ではそう理解している。
それはどこか現実味のない、物語のための仕組みのようにも思えて、私の知る現実からは遠かった。
私が知ってるのは、セランの両親みたいな家族のつながり。そして動物や家畜における番いの関係くらい。少し前までは婚姻だって、家族や群れをつくるため繁殖相手を持つ事だとぼんやり思っていた。
だから。知ったばかりでまだ恋なんてわからない。
前に、アスティは「恋していい」と言っていたけれど、私の中の本能はそんな信号を出している気配がない。
私とセランの間にあるのは、……これは愛。
私はセランが大好きだし、それは確かだと思う。セランも私を大事にしてくれて、きっと同じように思ってくれているはず。私はセランからの真心を疑ったことはない。
けれどこれは。ずっと繋ぎ続けてきた信頼や絆であって、“恋”という乱気流みたいな激しさは感じてない。そんな手前の段階の話じゃないって気がしてる。
……だけど、もし。
「セランを相手にしなさい」と決められたなら、それはすんなり頷ける。セランの両親、ダレンとエナのように自然に家族になってる姿を想像するのは簡単だった。
けれど、それが“恋”と言えるものなのか、あまりしっくり来ない。
それにセランの方から「恋をした」「恋人になろう」という種類のことを言われたこともない。
……それでも、まあ。難民みたいに生きていた頃はお互いしかいなかった。必然的に候補になっていた可能性はあるだろうけれど。
ジェスが思い違いをしたのは、降誕節に流行ったと聞いた「聖女の赤と黒の騎士」のお話のせいかもしれない。
あの派手な絵で、赤い髪の騎士が聖女に恋していると描かれていれば、刷り込まれちゃうことはありそうな気がした。
それにしても。この話をセランが知ったら……どうだろう?
笑い飛ばすかもしれない。
それとも、恥ずかしがって、やり場のない怒りを土に叩きつけるかもしれない。
「ふふ。それは面白そう」
思わず小さく笑みがこぼれた。
セランのことを考えていたはずなのに、なぜか。ふとカイルの姿が浮かぶ。
彼の視線は――あの人の方がよほど甘くて、眩しそうで、浮かれていて。頬を赤く染めているのもよく見る。よっぽど、小説に出てくる「恋」の描写に近い。
……あれ。
もしかしてカイルって、――恋をしているんじゃないのかな。




