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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
8章 蠢
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温かい食卓、凍てつく兆し

「お送りありがとうございました。」


リシェリアを住居の塔の入り口まで送り届け、侍女へ引き渡そうとしたところだった。


「うん。かなり力を使用したからね、君はきちんと休むように。それじゃ、また明日……」

 

別れの言葉を遮るように、腹が鳴った。締まらないうえに、このうえなく恥ずかしい。

 

「あ。……失礼。やはりあれだけじゃ足りなかったな」


「ふふ。大丈夫ですよ、何か召し上がって下さいね」


「ああ。そうだね。食堂に寄ることにするよ」

 

石室に降りる日は、どうしても時間の見通しが立たない。短時間で終えられることもあるが、下手をすれば一日をまるごと費やすこともある。食事の用意はさせていなかった。

幸い、今回はまだ食事が提供されている時間だ。俺は珍しく官吏用の食堂に足を向けようとした。


ついと袖を引かれる。


「食堂……私も行ってみたいのですが……」


そんな風にリシェリアが興味を示したので、彼女を伴うこととなった。


……ただの腹を満たすための食事にすぎないはずなのに、彼女と並んで歩くだけで、不思議と違って見える。石室での張りつめた緊張のあと、暖かな場所へ足を踏み入れる――それだけのことが、どこかご褒美のように感じられた。


扉を押し開けると、煮込みの香りと焼きたての黒パンの匂いが広がった。高い天井に反響する食器の触れ合う音とざわめき。質素だが、職務を終えた官吏たちが一息つく空気がそこにある。


普段なら俺は視線も向けず、手早く腹を満たして出ていく。だが今日は違う。隣にリシェリアがいる。それだけで、この場のすべてが柔らかく見えた。


彼女はきょろきょろと室内を見回している。

「こういう場所もあったんですね……」


小声で囁くように言うその顔は、どこか無防備で、見慣れた聖女の表情とは違っていた。


「滅多に利用することはないからな。簡素だが、腹を満たすには十分だ」


そう答えながら、胸の奥がわずかに熱を帯びるのを感じる。


空いている卓に腰を下ろすと、給仕役の兵が皿を置いていった。野菜と豆のスープ、焼いた塩漬け肉の薄切り、黒パン。飾り気はないが、湯気の立つそれらは確かな温かさを持っていた。


リシェリアは両手を合わせ、軽く目を伏せてから匙を取る。その仕草に周囲の視線が一瞬だけ集まり、すぐに離れていった。


「見られてしまっていますね……あまり場違いじゃないといいですが」


高位の者ほど、こういう場所にはあまり姿を見せない。貴族令嬢がほとんどである従来の聖女も同様だった。ただ、リシェリアが注目を集めるのは、それだけではない。特異な見た目の神秘的な存在感は自然と視線を集めてしまう。


だけれど、それを本人に言う必要もない。


「君みたいな貴賓は、あまり来ないからね。でも、別に聖女が利用してはいけない決まりなんてない。気にしなくて大丈夫だ。さあいただこう」

 

「は、はい。……あ、美味しい」

そう言いながら口にしたスープに、彼女はほっとしたように顔を緩めた。


「断食の後だと、殊更にありがたいな」


俺も匙を取り、熱を胃に流し込む。素朴な味だが、冷えた身体に沁みる。


「カイルは、よくここでも召し上がっているんですか」


「ごくたまにね。今日の様な予定が立ちにくい日には便利だからね。ただ、騒がしいのは得意ではないかな」


「……私は、あったかい感じがして、人がいるところが好きですよ」


パンを割きながら、彼女は静かに笑った。


誰かの会話が混じる、聞き取れない程度のざわめき。

 

ただ並んで食べているだけ。それだけのはずなのに、胸の奥にじわりと広がる感覚があった。ざわめきすら、どこか心地よく響いている。


「そうか。それじゃ……日を決めてこれから、たまにはこちらで一緒に食べようか」


自然と口にしていた。


「嬉しいですが、宜しいんですか?」


「意外と、会話相手がいれば喧騒も気にならないと思ったんだ」


本心だった。ひとりの時には煩わしかった音も、今はただの生活の気配に過ぎない。


「多少視線はあるだろうけれど、慣れてもらうのも必要だ。これから聖女として外の公務出れば、見られるのは君の日常になる」


「うふふ、そうですね。頑張ります」


柔らかな笑みが返る。


――違う。俺が変わったわけじゃない。隣にいるのが彼女だからだ。


言葉にしかけて、飲み込む。


「リシェリアといると、新しい視点が得られる。俺も学ぶところが多い」


そう言うと、彼女は少し照れたように目を伏せた。


その反応ひとつで、自分の視界も広がる気がした


***


けれど、その余韻に長く浸っていられるほど、今の俺たちは暇ではなかった。


控え室で、石室から持ち帰った瓶を改めて覗き込む。氷の中に閉じ込めた虫のような黒い影は、外気に触れしばらくすると、輪郭を失うように消えていった。


不可視になるわけではなく、知覚で追っても、光の中に溶けるように消失する。


「……石室の中だけの存在なのか」


光を食らうと感じたはずのそれが、明るい外では形を保てない。大樹の根と地下水、その環境があって初めて成立する異形なのだろうか。現時点ではこちらに害をなす気配はない。


だが、だからといって無視はできない。


陸に上がれば活動できない魚のように、場を離れれば無力化するだけの存在かもしれない。だが――真価を発揮する場が他にあるのだとすれば。それが、大樹の石室の中なのであれば、突き止めて再発防止の対処しない限り依然として危機は去っていないことになる。


残ったものは氷を保ったまま調査部門へ回す。専門の連中に任せるのが最善だ。


机に戻り、広げられた予定表を見下ろす。


年末までに残る治癒の継続、地方への外遊、その裏での分霊樹の確認と補強。どれも後回しにはできない。


石室の冷えはまだ骨に残っていたが、頭はすでに次へと向かっている。


リシェリアの肩にかかる責務は、もはや彼女個人が背負える範囲を超えている。


だからこそ。


俺が傍で補い、支え続けてみせる。そう固く思った。

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