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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
8章 蠢
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不穏の蠢く地下

リシェリアの聖痕に額を寄せて瞳を閉じ、異能による知覚の視座をひらけば。

俺の知覚では届かないものが見えるはずだった。


いつもなら。リシェリアの方からも扉が開かれるように、掌や肩を通じて柔らかな暖気――あの、春先の陽溜まりに似た霊質が、流れてくるはずだった。

いや、さっきまでは経路が繋がる気配があったのに、すうっと抜け落ちるように消えた。


(……?)


胸の奥がざわつき、知覚を強める。瞼を閉じていてもわかる。リシェリアの聖痕は異能を使っている時に纏う薄青い燐光が既に漂っていた。まるで空気そのものが静電して瞬いているようで、美しくも不安を煽る光景。


「……!」


次の瞬間、視界が闇に落ちた。

知覚が捉える視界は光に依存しない。暗くなるという感覚は、本来あり得ない。

なのに、暗い。圧倒的に。


焦って現実の目を開くと――

気づく。灯りが、唐突に消えていた。

閉じていたから暗闇は見通せていた。入り口と遠い光源で仄かに見通すことはできている。

 

でも理由がわからない。息も風もない。光が絶えるはずがない。


その刹那、リシェリアが数歩、後ずさりしてきて俺の胸にぶつかった。

「リ……」

思わず声をかけそうになる。


だが彼女はすぐに振り返り、しがみついてきた。

小さな手が俺の口を覆う。


「!?」


驚愕と困惑。

けれど彼女の必死の仕草が、すぐに状況を飲み込ませる。

瞳が揺れ、必死に頭を振っている。声を出すな――そう訴えていた。

視線も、ただ事ではない異変を示している。


俺は喉に押し込んだ言葉を呑み込み、彼女の腕を握り返した。

理由はわからない。だが今は従うしかない。


とりあえず――入り口へ戻ろう。

それしか判断できなかった。

冷え切った空気が石室を満たす中、俺たちはゆっくりと後退を始めた。


石室の入り口から充分に距離をとり、見下ろす石段にリシェリアがそっと腰を掛ける。

吐く息が白く揺れ、指先の震えを押し隠すように彼女は両手を膝の上に重ねた。


「困りました……」


意外にも緊迫していない声音。張りつめていた空気が、わずかに緩む。


「一体、何があったんだい」

俺も少しだけ肩の力を抜きながら、しかし油断はせずに問い返した。

「確認する間もなくて。リシェリアの影で前方は見えなかった」


「あ、そうですよね……すみません」

彼女は小さく頭を下げ、視線を伏せる。

「私も確実なことはわからないんですが……視界が埋まるほどの羽虫が急に湧いて」


「は!?」


思わず想像して、ぞっとした。

自らの体を見下ろしてまとわりつかれていないか、何度も確認してから石室の方を振り返る。暗い入口はただ口を開けているだけで、湧き出す虫の姿など見えない。


「知覚視野にしかいないので……前回と同じように、なにか病変かもしれません」

リシェリアの声が少し低くなる。

「あれは口に入ってはいけないと、……咄嗟にカイルの口、塞いでしまいました。すみません」


「いや、それは全然」

俺はすぐに返した。あの必死の目を思えば、責める言葉など出るはずがない。


「異能を使った途端、引き寄せられたのかこう……ざわっとこちらに動いたので、一旦こちらに」


「俺なら悲鳴を上げていたな……すごいな君は」

本心だった。今聞いた瞬間、内心では確かに声を上げかけていた。だが彼女は冷静さを崩さずに俺の口を塞ぎ、行動していた。


灯りも、その虫がまとわりついて消したという。火ではなく光を溜める石を使った灯籠だ。

「……光を食ってる?」


「そうか、そうかもしれません。いままでは石室内のわずかな光……大樹の周りの結晶と主根の光。それを食べてたのかもしれません」


「ふむ……」

考えうる可能性は多い。だが、石段からしみ上がる冷気が思考を鈍らせる。体の熱を容赦なく奪っていく。


くしゅん。小さなくしゃみが耳に届く。リシェリアの吐息も白い。


「ダメだ。とりあえず考えるのは後だ。……どうする?」

俺は問う。前回と同じく時間の猶予がないなら、戻らずここで対処しなければならないかもしれない。


「そうですね……。根の方に傷みは感じないので、多少は時間を置いても大丈夫そうですが……一つやってみたいことがあります。お任せいただけますか」

すでに根の状態は知覚しているらしい。


「……凍らせてしまいます」


静かながらも決意を帯びた声。


俺はうなずき、彼女とともに再び石室の入り口に立つ。

リシェリアが目を細め、薄青い光を強めた。

その瞳は膜をまとったように、いつもの柔らかな青から遠く、無機質な色へと変わっていく。


――先日、彼女の心の奥で垣間見た無機質な少女の姿が脳裏に蘇る。

あの無表情な瞳が、今こちらを見ているような錯覚に陥る。


かぶりを振って思考を現実に戻す。

彼女の内から立ちのぼる力が、ひんやりとした霧となって空間を覆っていく。

見えない翅音のざわめきに触れるたび、霧が瞬き、やがて氷の粒子へと変わった。


舞う虫の群れが氷によって視覚化され、肉眼でも見えるようになる。

凍りつき、空中で硬直していく。


以前よりも、彼女の使い方は洗練されていた。

彼女が思った通りに干渉し、領域全体を一気に凍らせる。

繊細さよりも、広くまとめて対処する方が性に合うのだろう。広さや深さ、細かさはまだ課題があるにせよ、その力は確かに進歩していた。


俺は今回は任せきりで、思考を巡らせる余裕すらあった。

そんなことを考えているうちに、リシェリアはさらに力を注ぎ、霧を凝縮させていく。

ばらばらに散らばる氷片を一つに集め、固め、丸める。


やがて彼女の掌には、透明な球体が残った。

その中に、光を食らおうと蠢いていた羽虫たちが封じ込められている。


「リシェリア。これは生きてるのか?」


「命あるものという感じはしませんが……持ち帰ります?」


俺は……本当に嫌だが……氷柱のように抱えて石段を上がることにした。


控え室に戻り、待機していた調査祭祀官に硝子の瓶を用意させ、氷の虫玉を渡した。調査に回す。


暖をとりながらリシェリアが言った。

「前回、あの時。とっさのことで石室全部を力で埋めてしまいました。……栄養を与えすぎてしまったんではないかな、と思います」


リシェリアの確信に満ちた言葉が、俺の中でも腑に落ちた。

補給に渡された野菜スープを胃の腑に落とす。……温かいが、いかんせん食べ応えが足りない。まだ戻るかもしれないので動物性の味はお預けだ。


「根が吸いきれなかった余剰の力が、地下水へと流れ落ちてそこから湧いたとするのは想像できるな」


アデライナからの調書にも、調査時水が淡く光を帯びていたという証言はあった。ならば理屈は通りそうに聞こえる。養分の満ちた水から、異形の虫が湧いたのだと。


「……深く調査しないとなんとも言えないけれど。今、急に発生したのはどう思う」


「虫の形をしていたのでそれに当てはめると……冬ですから。冬眠していたのかも。……今も灯さなかったら眠っていたかもしれませんね」

リシェリアは顎に手を当て、考えるように言った。

その理論が正しいとして、念のための再調査もせず、春に訪れていたら……虫の充満する地下だったかもしれない。


想像するだけで寒気がする。


「根の方はいったん大丈夫そうでした。おそらく調査いただいた通りの位置で相違ないかと」

リシェリアが左右を見て、そっと俺の手を取った。


一瞬だけ戸惑うが……彼女からの他意はない。知覚で先ほど見た視野を共有してくれるだけだ。

瞳を閉じると、先ほど彼女が見た天蓋が映し出される。


石室に戻ったような、狭く圧迫的な光景。冷気まで感じるようで、この視野共有は本当に便利だな。

「確かに。」

これなら、再入室はしなくてもいいだろう。


「じゃあ今日はこれで上がっていいな」


「承知しました。……カイル。まだ戻りませんか?」

安心と共に、彼女が視野を遮断した。

立ち上がろうとするが、俺が彼女の手を離さなかったのでリシェリアは立ち上がれないでいた。


「……もう少しだけ」


今日はリシェリアと、前のように深いところまで霊質を繋げることができなかった。

……だから。


もう少しだけ手をつないでいたかった。

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