生まれたてのテラリウム
あの後、新年の仕事初めとなる日までの週ひと巡りのあいだ、最低限の日勤以外は、自由に過ごすことが許された。
一日中庭にいてもいい。お昼寝をして過ごしてもいい。とても、長閑な冬のひととき。
「あ、……雪が。冷えちゃうから奥にしまってあげないと」
塔から窓をぼんやり見ていると雪の結晶がひらひらと舞うのが見えた。
以前カイルから聞いた通り大樹の影にある城は深く積もりはしないけれど、温度は落ちるらしかった。
だから、取り込んでしまわないといけなかった。私の”小さな世界”を。
露台で日照を与えていたテラリウム――硝子瓶の中に作られた小さな庭を、抱えて部屋に戻すことにした。
このテラリウムというものは、エリシアナから贈られた品だった。
交代式の日に執務室の机に見つけた、あのお別れの贈り物。
発端は、エリシアナが庭に出入りをし始めた頃のこと。
「お姉様との思い出が欲しいのです」
あまりに真っ直ぐで、ためらいも計算もなくて。胸の奥に響いた。思い出、という言葉に込められた気持ちを、拒む理由がどこにもない。
そんな嬉しい言葉に頷けば、エリシアナとマティアスが提案してくれたのが、テラリウムを作って交換することだった。
外界から切り離された、けれど確かに生きている世界。箱庭と呼ぶ方がしっくりくる気もするそれは、覗き込めば覗き込むほど、静かな命の気配を返してくる。
閉ざされた硝子の内側で、水分と空気が巡り、草木と土が自分たちの世界を保ち続けるという。外から何も与えられなくても、内側だけで循環して、均衡を保つ。
それは、どこか安心する仕組みに思えた。怖いものに晒されないし、内側で完結する世界。
秋の終わり、まだ空気に冷たさが混じりはじめた頃。私たちは、忙しくなる前のわずかな隙間のような時間に並んでこれを作っていた。
それぞれが持ち込んだ草木の芽や子株。土に触れ、配置や種類を考えて指先で位置を整えながら植えていく作業は、思いのほか楽しくて、その分この先のエリシアナとの別れを考えて胸を苦しくさせたのを覚えている。
「これで蓋を閉じておけば完成です。根付くまでのしばらくは私が責任持ってお世話いたします。しばらくしましたら、お二人のお手元にお届けいたしますね」
マティアスの手元を、私はじっと見ていた。丁寧に、慎重に、硝子の蓋が閉じられていく。外と内を隔てるその一枚が、境界を作る瞬間を、どこか緊張する気持ちで見守っていた。
「楽しみですね。でも、中の樹木が成長したら中から蓋を押し開いたりするのではないでしょうか?」
ほんの小さな懸念だった。
私の知っている自然は力強くて、時に人には制御できないほど荒ぶるものだと知っていたから。
私はそれを何度も見てきた。放置された場所では、草も木も、遠慮なんてしない。根は深く張り、幹は岩や石造の壁を割り、枝は空を奪うように伸びる。
だから、硝子瓶に閉じられた中でそれが収まるということが、うまく想像できなかった。
「ご安心を、リシェリアお姉様。もちろん、たまに古い葉など取り除くために開ける必要はありますが、中のものが溢れてくるようなことはありませんわ。そうだったわよね、マティアス?」
エリシアナの声は、弾むように軽くて、けれど確信に満ちていた。そのままマティアスへ視線を向ける仕草に、信頼がにじんでいる。二人のあいだに流れる信頼は、私が知っている温度と似ている。
「ええ。蓋を閉じていれば、その中で必要以上に成長しないのです。これは個人的な私見ですが……植物は、自分のいる世界の大きさや最適な形というものを知っているのだと思います。」
「……そう、なんだ。」
思わず小さく言葉がこぼれた。
……すごい。この子たちは与えられた枠の中で、どう生きるか。どこまで広がるかを、自分でわかって決めてるんだ。
自分のいる世界の大きさを知っている、という感覚に、言葉にできない気持ちが震えた。
マティアスは私の知らない世界の秘密を、なんてことのないように続けていく。
「もちろん、蓋を開ければ違います。器を超えて延びていきますし、風が運ぶ種なんかも入ったりして予想外の成長をしていきますよ。その代わり普通の鉢植えのように、ある程度湿度や気温の世話はする必要が出来ますが。……リシェリア様ならそちらは問題ないでしょう。環境が落ち着いてきたら、色々試してみてください」
外に触れれば、変わる。混ざる。広がる。予想できない形になる。それは、怖いことでもあり、でもきっと、それだけではない。
「はい、わかりました。……すごく不思議な仕組みですね。」
自然の中でしか草木を見たことがなかった私にとって、その仕組みはどこか現実味が薄くて、けれど確かに目の前にある小さな庭は、それを証明している。閉じられているのに、生きている。
その在り方が、静かに心に残る。
「高貴な方のお目を楽しませるものとして、我が故郷で人気のある娯楽です」 「さすが、農耕で名を馳せるヴェルセル家の庭師様ですね。……マティアスも、今まで本当にありがとう」
尊敬してしまう。思えばマティアスは普段から庭木の世話について、いつも広範な知識を教えてくれた。カイルとは違う教科の先生だった。
「いえいえ、いや。あはは。勿体ないお言葉です」
マティアスが少しだけ困ったように笑い、エリシアナが誇らしげに微笑む。そのやり取りを見ながら、私はもう一度、硝子の中の庭へと視線を落とした。
小さく、閉じられた世界。けれどそこには、確かに循環があり、均衡があり、そして命がある。
自分が作ったものを手放して、相手の作ったものを受け取る。それは少しだけ名残惜しくて、けれどそれ以上に、不思議と嬉しかった。
これが、思い出。
ただの記録ではなく、形を持った、触れられる記憶。そう思うと、胸の奥に、静かに温度が残った。
テラリウムを包んでいた箱に添えられていた手紙には、その後の扱い方が記されていた。硝子の中で完結する世界とはいえ、完全に放っておいていいわけではないらしい。太陽の光はどんな場所にも必要で、窓辺や明るい場所に置いてやること。硝子は熱を通しやすいから、暑すぎれば中が煮え、寒すぎれば凍る。そのどちらにもならないよう、置き場所には少しだけ気を配る必要がある‥…と、簡潔に記されていた。
説明は簡潔で、難しいことは何もなかった。複雑に手を加える必要はない。ただ、見て、気づいて、適切な場所に置く。それだけで良い。
けれど、だからこそ余計に、その小さな世界の維持が自分の手に委ねられているように感じられて、ほんの少しだけ背筋が伸びた。
そんなふうにエリシアナと私が作った小世界。それが今、私の腕の中にある。
余暇の時間、私はその硝子瓶を眺めることが増えた。特別なことは何も起きない。苔がむして草の丈がすこし伸びたり、葉の色がわずかに変わったりする程度の、静かな変化。それでも、そのわずかな違いを追うのが、思っていた以上に心地よかった。
閉じられているのに、確かに生きている。何も語らないのに、そこに在るだけで満ちている。
たまに、空が曇って光が足りない日や、気温が落ちすぎる日には、その硝子瓶を抱えて、部屋の中を歩き回ることもある。窓際に寄せたり、少し暖かい場所を探したり。大げさなことではないけれど、小さな世界を守るために、居場所を選び直して。
私がエリシアナにあげたものには、今のお庭や小屋を模した縮図にしてみた。エリシアナがいつでもこの庭を思い出してくれるように願って。
きっと、マティアスと一緒に見守ってくれるはず。
エリシアナがくれたテラリウムの中には、私が好きな草花と小さな樹木、そして鉱石がいくつか組み合わさった景色になっていた。
中央は氷のように大きめの透明な水晶がモニュメントのようにおいてあり、光に当たると小さな虹を作った。
それが本当にとても綺麗で、本当は、虹を見るために私は日向を探し歩いているのかもしれない。
手紙の中に、エリシアナから秘密を打ち明けるかのように書いてあった。
『お姉さまがきっとご存じない花の種を埋めました。どんなものが咲くか、ぜひ楽しみになさって。またお会いしましょうね』
「……どんな色の花が咲くのかな」
私は手紙の文字をなぞって読み返しながら、笑っていた。
こんなに、未来が来るのが嬉しくて楽しみになるなんて、数年前はありえないことだった。
アスティに拾われてからも、まだ半信半疑だった。王都に来て、ようやく実感がわいてきていた。
そして、今は。どんどん明日が楽しみになっている。
ふと思った。
私のいる世界も、誰かが作ったテラリウムなのかもしれない。
そして、どこかで硝子の蓋が空いたから、変わったのかも。
私はそのまま午後の時間いっぱい、硝子の中の、閉じられた世界をしばらく見つめ続けた。




