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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
8章 蠢
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聖女の仕事初め

ようやく祭祀庁には日常が帰ってきた。

この喧噪の季節を終えると、毎年のように俺は故郷に戻り、一年分の書類を検め、家令に領地経営の指示を与えるのを常としてきた。

もっとも、そこに俺を待つ家族はなく、帰郷といっても冷たい帳簿と地図に向かうだけの時間にすぎない。


だが今年は違う。

担当官として聖女に仕える身であり、リシェリア自身には帰るべき故郷もない。帰郷するという発想そのものが彼女にはないのだ。

ならば、俺が彼女の傍を離れる理由もまた存在しない。今年の領地の管理は手紙による差配だけで済ませることになるだろう。


いや――来年はどうだろうか。

今年はもう時機を逸しているが、もしも。もしも彼女が俺と歩調を合わせてくれるのなら、領地に招待するのも悪くない。

あそこは静かで、森が深く、湖が美しい。リシェリアの眼が好むであろう風景はいくらでもある。

それに……彼女が俺に連れ添ってくれるのなら、あの土地は彼女の領地にもなる。彼女の足跡が根を張る場所となるのだ。

きっと、気に入ってくれる。

友人であるアスティの実家領とも近いし、安心もするだろう。


……うん。考えておこう。


深く息をつき、扉を叩いた。

「新年おめでとう」


木の響きに重なるように、奥から澄んだ声が返ってくる。

「カイル。おはようございます」


扉を開けた瞬間、目に映ったのは笑顔で立ち上がるリシェリアだった。

長き祭事に疲労を隠せなかった顔も、短い休暇と庭でのひとときに癒やされたのか、今日は血色も良く、瞳は透きとおるように輝いている。

……良かった。本当に。


執務机の上には、冬薔薇の瑞々しい枝が飾られていた。

仄かな香りが空気を揺らし、閉じた部屋に冷ややかな清涼を運んでいる。


「エリシアナが残してくれた薔薇です。素敵でしょう」

俺がふとその香りを吸い込んだのを見て、リシェリアが嬉しそうに言ったのを頷いて肯定を返した。


緑と花の匂いに満ちた空間――彼女らしい部屋だ。


執務室の卓の横、窓際の日向に近い場所に、本来は花を飾る花瓶台に、一抱えの硝子の瓶が据えられていた。テラリウムと言う、箱庭の一種。聞いたことはあったが実際に見るの初めてだった。


確かに。どちらかと言えば根付いた緑を愛する彼女に贈るものとして相応しく思えた。

「そのうち花が咲くそうなんです。春が待ち遠しいです」


そう言って笑う本人の方がよほど花だ。


「うん。……一緒に見守ろう」


心の中で春風に吹かれるように俺も自然に言葉が零れた。


質素に過ごしてきた彼女に、こうして執務室が与えられた。自然と俺の生活も変わっていく。

今や、俺が足を運ぶのは階下のこの部屋であり、俺自身の自室に戻るのは単独で処理すべき事務がある時だけ。


彼女の執務室には、俺の机まで用意されている。

まだどこか「他人の部屋」に居候している感覚はあるが、やがてここは「二人の部屋」になっていくのだろう。

その想像は、不思議なほどに胸を熱くする。聖女の担当官であるという現実感が、ひしひしと骨の内側から沁みてくるのを感じる。


「さて、リシェリア。いよいよ実務の始まりだ」

俺は机に歩み寄り、巻物を解き広げた。

「まずはこちらの、先代のエリシアナ嬢やアデライナたちが調べておいてくれた図面を確認してほしい」


天蓋の根を克明に写し取った線図が机いっぱいに広がり、二人の朝が始まった。


俺は机の上にもう一枚の紙を広げた。

国土を描いた詳細な地図――山脈の稜線、河川の流れ、城砦や街道までも記されたものだ。


「それにこれが国土の地図。だいたい根と、地図は相対している。……もちろん、根が張る通りに国があるわけじゃない」

俺は図上で指を滑らせ、重ならない箇所を示した。


「国境を越える根もある。逆に、根がない国土もある。根がない場所は、大きな影響を受けることはないだろう。……問題は、異変が国境の先に及ぶ場合だ」


他国にとって、それは我が国の大樹の問題でしかない。知らぬ存ぜぬで済ませる可能性がある。

だが、兆しが災害を孕むものなら、無関心では済まない。災いが越境すれば被害は広がる。

「だから、もしもその気配があるなら警告は必要だ。……まあ、異変の範囲に含まれないことを祈ろう」


リシェリアは静かに顔だけで頷いた。

何も言わない。余計な口を挟まず、ただ真摯に耳を傾ける――その態度は俺にとって好ましい。

だが同時に、時折ふと不安になる。澄ました顔でいるだけで、本当に中身を聞いているのかどうか。……そのくらい彼女は奔放で、どこか掴みきれないところがあるのだ。

最近ようやく、その内側の素顔を少しずつ知り始めたからこそ、余計に。


「一度、近日中に石室に降りて、アデライナたちの測定と差異がないか確認をする。急ぎで必要な傷みがあれば、癒しも」

俺はそう告げ、次の予定を口にした。


「……石室に降りるということは……断食ですか」

リシェリアが小さく息を飲むように、思い出したように言った。


「……うん。残念ながらそうだ」

俺は苦笑し、思わずため息をついた。

これだけはどうにも馴染めない。食を絶つと、途端に思考回路が鈍る。頭の働きが曇り、計算も論理も滑らかに回らなくなるのだ。

務めのためとはいえ、断食の行が俺には一番厄介で、忌々しい。



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