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消えた音

 次の日。


 夕方。


 私はベッドの上で本を読んでいた。


「アリナ」


「はい?」


 隣。セレスさん。


「それ面白い?」


「まだ分かりません」


「どれくらい読んだ?」


「十二ページ」


「まだ分からないね」


「ですよね」


「でも十二ページ読めたなら偉い」


「何が?」


「私は三ページで寝る」


「本読むの向いてないんじゃ」


「そうかも」


 少し、笑う。


 昨日よりこの部屋にも少し慣れた。


 慣れたくはないけど。


「お兄ちゃん来た?」


「今日はまだ」


「来るって言ってた?」


「面会できないから」


「ああ」


「でも多分」


 言いかける。


「来てると思います」


「なんで?」


「毎日来るから」


「仲いいね」


「普通です」


「まだ言うんだ」


「普通です」


「はいはい」


 ページをめくる。


 一枚。


 そのとき。


「……待って」


 セレスさんの声が変わった。


「何ですか?」


「静かにして」


「はい」


 本を閉じる。


 何も聞こえない。


「何?」


「しっ」


 また黙る。


 廊下の遠くで兵士の足音。


 それだけ。


「……一つ」


 セレスさんが言った。


「何が?」


「消えた」


「何がですか」


 答えはすぐに来なかった。


「アリナ」


「はい」


「壁から離れて」


「え?」


「いいから」


 初めてだった。


 セレスさんがこんな声を出すのは。


 私はすぐにベッドから降りた。


「扉の方」


「はい」


 部屋の真ん中を通り、鉄の扉の前へ行く。


「ここ?」


「もう少し右」


「はい」


「そこで」


 止まる。


「セレスさん」


「何」


「何が消えたの?」


「壁の音」


「壁?」


「うん」


 壁を見る。


「音なんてしてました?」


「してるよ」


「全然分からない」


「小さいから」


「どんな?」


「ずっと」


 一度、セレスさんが音を探すみたいに黙る。


「低い音」


「魔法装置?」


「たぶん」


「たぶん?」


「名前までは知らない」


 第二隔離区画の壁。


 金属板。


 お兄ちゃんたちと入ったとき、オルティナさんが魔法装置だと言っていた。


「それが止まった?」


「一枚だけ」


「壊れたとか」


「かもね」


 でも、セレスさんの声は軽くなかった。


「……二枚目」


「え?」


 身体が固まる。


「また?」


「うん」


「近い?」


「近づいてる」


 意味が分からない。


「何が?」


「分からない」


 また、間があった。


「三枚目」


「セレスさん」


「誰か!」


 突然、セレスさんが叫んだ。


「壁の装置、止まってる!」


 廊下。


 すぐに足音。


「何だ!」


 ディントの声。


「外側から順番に止まってる!」


 一瞬、静かになった。


「全員起こせ!」


 声が変わった。


「第二外周を確認! 誰も一人で行くな!」


「はい!」


 兵士たちが走る。


「アリナ!」


「いる!」


「扉から離れるな!」


「分かった!」


「セレス、聞こえるか!」


「聞こえるよ」


「異常は?」


「まだ音だけ」


「分かった」


 金属の音。


 剣。


 たぶん、ディントが抜いた。


「……怖い?」


 セレスさんが聞いた。


「怖いです」


「そっか」


「セレスさんは?」


「怖いよ」


 昨日と同じ。


 それなのに少し、落ち着いた。


     ◇


 四枚目は止まらなかった。


 代わりに音がした。


 カン。


 小さい。


 壁の向こう。


「何?」


「下がって」


「もう扉です」


「じゃあそのまま」


 もう一度。


 カン。


 今度は少し大きい。


「外に誰かいる?」


「分からない」


 セレスさん。


「でも」


「何?」


「壁に何か触ってる」


 廊下から声。


「外周西側!」


「人影!」


「止まれ!」


 走る音。


 遠く。


「待て!」


 誰かが追っている。


「ディント!」


 私が呼ぶ。


「いる!」


 すぐ返ってきた。


「追わないの?」


「追わせた!」


「ディントは?」


「ここにいる!」


「なんで?」


「……」


「ディント?」


 間。


「約束したからだ」


「何の?」


「お前を一人にしない」


 胸が少し、詰まった。


 お兄ちゃん。


「それ」


「ライクとの約束だ」


「……そっか」


「ああ」


「なら」


 息を吐く。


「ここにいて」


「言われなくてもいる」


 カン。


 また壁から音がした。


 でも、その直後。


 低い音が戻った。


「……」


「セレスさん?」


「一枚」


 少し待つ。


「二枚」


「戻ってる?」


「うん」


 三枚。


「全部?」


「……全部」


 廊下の空気が少しだけ緩んだ。


 でも、誰も武器を下ろしてはいなかった。


     ◇


 しばらくして、兵士が戻った。


「逃げられました」


 ディントが扉の外で聞く。


「人数は」


「一人確認」


「一人だけ?」


「確認できたのは一人です」


「分かった」


「何をしていた」


「外周の点検口に」


 兵士が息を整える。


「器具を取り付けていました」


「器具?」


「はい」


「残ってるか」


「一部だけ」


「触るな」


「もう周囲を止めています」


「ガンカレスへ伝令」


「はい」


 足音が離れる。


「アリナ」


「何?」


「怪我は」


「ない」


「気分は?」


「怖い」


 一度、言う。


「でも、平気」


「……そうか」


「大丈夫とは言ってないよ」


「知ってる」


「お兄ちゃんに言われた?」


「ああ」


「やっぱり」


 少しだけ笑えた。


「隣の部屋は?」


 ディントが聞いた。


「私は平気」


 セレスさんが答える。


「異常は?」


「今のところはないよ」


「分かった」


 さっきまで普通に話していた人の声が、少しだけ仕事の声に戻っている。


 それがなんだか変だった。


     ◇


 しばらくして、兵士たちの声が遠くなった。


 壁の低い音は戻っている。


「セレスさん」


「うん?」


「さっき」


「うん」


「どうして分かったんですか」


「何が?」


「近づいてるって」


「ああ」


 壁の向こう。


 少し、考える気配。


「音が」


「はい」


「外側から」


 一つずつ。


「順番に消えたから」


「……」


 監理院の外から、こちらへ。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


「じゃあ、セレスさんの部屋は?」


「私のところは」


 セレスさんが言った。


「一度も消えてない」


「……」


 背中が冷たくなった。


「じゃあ」


 声が少し出にくい。


「止まったのは」


「うん」


 セレスさんの声が静かになる。


「あなたの部屋の周りだけ」


 壁を見る。


 何も変わっていない。


 金属板も。


 石の壁も。


 昨日と同じ。


 でも、誰かが外からここまで来た。


 セレスさんの部屋じゃない。


 他の部屋でもない。


 私の部屋の周りだけ、音を消した。


「セレスさん」


「うん?」


「私」


 喉を鳴らす。


「見つかってる?」


 すぐには答えが来なかった。


「たぶん」


 いつものその言葉。


 でも、今度だけは聞きたくなかった。


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