向こうからきた
黒髪の男が人混みへ消えた。
「追わないの?」
オルティナが聞く。
「今はね」
アカポリスが答える。
「でも見つけた」
「ああ」
俺もまだ通りの先を見ていた。
黒い髪。
右の頬。
細い傷。
間違いない。
「あいつだ」
「分かったから」
アカポリスが俺の肩を押す。
「一回離れるよ」
「なんで」
「気づかれた」
「だから追うんじゃないの?」
「気づかれた相手を」
一度、人混みを見る。
「相手の逃げたい方へ追う?」
「……」
「今考えてる」
「じゃあ考えな」
オルティナが杖を持ったまま言う。
「命かかってるんだから」
悔しい。
でも、分かる。
あいつが一人なのかも分からない。
どこへ向かっているのかも分からない。
俺たちは監理院のすぐ近くにいる。
アリナも、この中だ。
「……戻ろう」
そう言うと、オルティナが頷いた。
◇
監理院へ戻る途中。
十字の印の前を、もう一度通った。
「これ、消さないの?」
「残す」
アカポリス。
「なんで?」
「誰かがまた触るかもしれない」
「あ」
「じゃあ兵士を一人」
ガンカレスが言った。
「少し離して置く」
「見張るの?」
「ああ」
「目立たない人で」
「お前に言われなくても分かっている」
「念のため」
「余計だ」
少し、いつもの感じに戻りかけた。
そのとき。
「坊ちゃん」
アカポリス。
「何」
「前」
見る。
人が行き交っている。
「どれ?」
「まだ分からない?」
「何が」
アカポリスの目が細くなる。
「戻ってきた」
「……」
人混みの中。
一人だけ、こっちへ歩いてくる男がいる。
黒い髪。
右の頬。
「なんで」
身体が固くなる。
「逃げたんじゃ」
「逃げてなかったんだろうね」
アカポリスが弓へ手を伸ばす。
オルティナも杖を構えた。
「待て」
ガンカレスが言った。
「まだ何もしていない」
男が近づいてくる。
二十歩。
十五。
十。
走らない。
隠れない。
俺たちの横を、そのまま通り過ぎるつもりみたいに歩いてくる。
「……お前」
声をかけた。
男が止まった。
初めて正面から顔を見る。
三十くらい。
細い身体。
右の頬に傷。
「あのとき」
喉が少し乾く。
「市場にいたよな」
「ああ」
短く返ってきた。
「アリナを」
一歩、前へ出そうになる。
アカポリスの手が俺の服を掴んだ。
「魔女だって叫んだ」
「ああ」
「なんで」
「見たままを言った」
「子どもを助けただけだろ」
男は答えなかった。
「アリナを知ってたのか」
それにも答えない。
「おい」
男の視線が、俺から外れた。
監理院。
その奥を見る。
「何見てる」
男が口を開いた。
「奥へ移したか」
息が止まった。
「……は?」
オルティナの杖が少し上がる。
アカポリスも笑っていない。
「なんで知ってる」
男は答えない。
「誰から聞いた」
何も言わない。
昨日。
アリナは第二隔離区画へ移った。
こいつは、それを知っている。
「お前は何者だ」
ガンカレスが前へ出た。
返事はない。
「名前は」
沈黙。
「所属は」
それにも答えない。
「なら」
ガンカレスがもう一歩近づく。
「監理院で話を聞く」
「断る」
「拒否できると思っているのか」
男の右腕が下がった。
アカポリスが息を吸う。
「下がって!」
肩を強く引かれた。
「何――」
男の袖。
内側。
一瞬だけ見えた。
黒いもの。
小さな石。
金属の枠。
「……!」
オルティナが杖を向ける。
水が浮かんだ。
男は何も撃たない。
ただ、右腕を下げたままガンカレスを見る。
「近づくな」
「脅しか」
「警告だ」
ガンカレスが止まった。
アカポリスも弓から手を離さない。
「お前」
俺は袖を見る。
「今の、何だ」
男は答えない。
「黒い石なのか」
返事はない。
「アリナに関係あるのか」
男の目が、俺へ戻った。
「答えろよ」
しばらく。
俺を見る。
それから。
「お前には関係ない」
「アリナが関わってるなら」
すぐに返す。
「もう関係ある」
男の動きが、ほんの少し止まった。
「……そうか」
一歩。
後ろへ下がる。
「待て」
男が背を向けた。
「追うな」
アカポリスが言う。
「でも!」
「今の見たでしょ」
袖の中。
黒いもの。
何に使うのかも分からない。
男は人混みへ入っていく。
男の姿が消える。
今度こそ、見えなくなった。
「あれ」
俺が言う。
「黒かった」
「ああ」
ガンカレスも男が消えた方を見ている。
「金属の枠も」
オルティナ。
「見えた」
アカポリスも頷いた。
市場で見たものや、北にあったものと同じかは、まだ分からない。
「それと」
ガンカレスが監理院を見る。
「奴は」
一度、言葉を切った。
「アリナ・ベルティムが移されたことを知っていた」
「……うん」
昨日。
アリナは奥へ移った。
その夜から朝に、新しい印がついた。
そして今日。
市場にいた男が、それを知っていた。
どうやって知ったのかは分からない。
でも、俺たちも一つ見た。
あいつの袖には、黒いものがあった。




