昨日はなかった
翌朝。
庭で、片足のまま腰を落とした。
膝が揺れる。踏ん張る。十まで数えて、反対の足に替える。
次は足運び。
踏み込んで、止まる。
身体の向きだけ変えて、また止まる。
「……何やってんの?」
庭の入口にアカポリスが立っていた。
「足運びと体幹トレーニング」
「今も続けてたんだ」
「毎朝。短い日もあるけど」
アカポリスが足元を見る。
「剣じゃないんだ?」
「剣もやるよ。でも、父さんともディントとも、剣だけなら今は勝てない」
「それで?」
「自分にやれること増やしてる」
もう一度、足を入れ替える。
今度は揺れなかった。
「父さんが帰ってきたら、また勝負するの?」
「アリナも帰ってきたらな」
「勝てる?」
「今は無理」
「正直だね」
「だから練習してんだよ」
アカポリスが笑った。
「そのときは私も見に来ようかな」
「やめろ。笑うやつが増える」
「負ける前提?」
「……今はな」
片足を下ろす。
「着替えてくる。監理院、行くだろ」
「うん」
家へ戻った。
◇
着替えて、監理院へ行った。
「面会は?」
「まだだ」
受付の奥から、ガンカレスが答える。
「アリナは?」
「夜間の異常報告はない」
「眠れた?」
「そこまでは知らん。私は兄ではない」
「じゃあ直接聞かせてよ」
「なら待て」
横でオルティナが笑った。
「朝から元気だね」
「元気じゃないよ」
「元気な人の会話だよ」
「じゃあ元気」
「適当」
ガンカレスが書類へ目を戻す。
「用が済んだなら帰れ」
「まだある。昨日の人」
「収容者の情報は話せん」
「名前も、Sの理由も?」
「話せん」
「何なら話せる?」
「お前の妹は昨夜、異常なし」
「……それは聞きたい」
「なら、それで帰れ」
「でも」
「坊ちゃん」
後ろから声がした。
アカポリス。
「来て」
「何?」
「外」
顔が笑っていなかった。
◇
監理院の裏へ回った。
地下の入口を調べたときにも来た場所だ。
「どこ?」
「もう少し」
アカポリスが建物沿いを歩く。
オルティナもついてくる。
「これ」
アカポリスが止まった。
監理院の外壁ではない。
細い道を挟んだ反対側の古い石壁。
腰より少し低いところに、二本の線が交差している。
「……」
近づく。
斜めに一本。
もう一本。
十字。
学院。
市場。
菓子屋。
家の近く。
何度も見た形だった。
「新しい?」
「かなり」
アカポリスが傷の縁を見る。
「石の粉がまだ残ってる」
「昨日は?」
「なかった」
顔を上げた。
「確認したの?」
「ああ。妹さんが移されたあと、一周した」
「……これが増えてないか?」
「そう」
そのときにはなかった。
なら。
「昨日の夜から今朝まで」
「ああ」
アカポリスが頷く。
「その間についた」
石壁を見る。
その向こうには監理院がある。
昨日、アリナが移された場所。
「なんで」
印を見る。
「ここなんだ」
答えは出なかった。
◇
ガンカレスを連れてきた。
「これだ」
アカポリスが言う。
ガンカレスはしゃがみ、印を近くから見る。
触らない。
「昨日はなかった」
「確認した時刻は」
「日が落ちる少し前」
「アリナを移したあとだな」
「ああ」
ガンカレスが印から監理院へ目を移した。
「この位置」
俺も建物を見る。
「第二隔離区画?」
「……外周の一部だ」
胸の奥がざわつく。
「じゃあ、やっぱり」
「待て」
ガンカレスが言った。
「昨日までなかった。移送後に付いた。第二隔離区画に近い」
「ああ」
「確認できたのはそこまでだ」
俺は印を見る。
全部、重なっている。
でも。
「……分かった」
それ以上は言わなかった。
オルティナがこっちを見る。
少しだけ笑った。
その横で、アカポリスの表情が変わった。
「坊ちゃん」
「何」
「振り向かないで」
身体が動きかける。
止めた。
「どこ」
「通りの角」
「誰」
「男」
「知ってる?」
「まだ」
「見たい」
「振り向くな」
「分かった」
横を見る。
閉まった店の窓。
薄いガラスに、通りがぼんやり映っている。
「……」
「上手くなったね」
「前に教わった」
人影。
男。
地味な服。
壁際から、こちらを見ている。
「灰色の帽子?」
「違う」
アカポリスが答える。
「別人」
男が動いた。
俺たちから離れる方へ歩き出す。
「追う?」
小さく聞く。
「どう思う?」
アカポリスがこっちを見る。
「俺に聞くの?」
「ああ」
考える。
前は追った。
菓子屋の近くで印を消していた男。
そのまま追いかけて、器具を向けられた。
アカポリスに言われた。
相手が一人だって確認できた?
「……一人か分からない」
「うん」
「このまま追うのは危ない」
「うん」
男がガラスの中で角へ近づいていく。
「でも、見失いたくない」
「じゃあ?」
「距離を取る」
「誰が?」
「アカポリス」
「私は?」
オルティナが聞く。
「俺たちはここで待つ」
「勝手に決めた」
「嫌?」
「別に」
「じゃあ、それで」
アカポリスは男とは別の方向へ歩き出した。
そのまま路地へ入る。
「追ってないじゃん」
「追ってるよ」
「どこにいるの?」
「もういない」
「早っ」
「そういう人だからね」
オルティナが窓を見る。
「男も消えた」
「角曲がった?」
「うん」
「じゃあ」
一歩出ようとしたところで、袖を引かれた。
「何?」
「待つんでしょ」
「……分かってる」
「なら待ちな」
「はい」
オルティナは窓へ目を戻した。
◇
長くはかからなかった。
「坊ちゃん」
声は横からした。
いつの間にか、アカポリスが戻っていた。
「いた?」
「ああ」
「誰?」
「さっきの男は知らない」
「じゃあ」
「でも」
アカポリスが通りの先を見る。
「一人じゃなかった」
胸が少しだけ速くなる。
「誰といた?」
「顔」
一度、俺を見る。
「確認して」
「あんたしか知らない」
その言葉で分かった。
市場。
最初の日。
アリナを誰より早く見て。
魔女と呼んだ男。
「どこ」
「こっち」
◇
建物の陰。
少し離れた広い通り。
「正面から見るな」
「分かってる」
店先に、金属の皿が置かれている。
磨かれた表面。
歪んだ通りが映っていた。
二人。
さっきの男。
その隣。
細い身体。
黒い髪。
右の頬。
「……」
傷。
細い一本。
忘れるわけがない。
「坊ちゃん?」
「あいつだ」
「確か?」
「ああ」
手が勝手に握られる。
「市場にいた」
アリナを見ていた。
何かを確かめるみたいな顔で。
そして、最初に叫んだ。
「魔女だって」
息を吸う。
「あいつが言った」
黒髪の男がゆっくり顔を上げた。
皿の中。
歪んだ像。
それでも分かった。
こっちを見た。
「……気づかれた」
アカポリスが言った。
男の口元がほんの少し上がる。
笑ったようにも見えた。
そして、背を向けた。
「待て」
身体が前へ出る。
アカポリスの腕が胸を止めた。
「まだ」
「でも!」
「今度は」
声が低い。
「見つけた」
黒髪の男が人混みへ消える。
でも、今までとは違う。
向こうだけが俺たちを見ていたんじゃない。
今度は、俺もあいつを見つけた。




