隣の人
部屋は思っていたより普通だった。ベッド、机、椅子、小さな棚。窓はない。それ以外は前の部屋とそんなに変わらない。
「……ここか」
荷物が机の上に置いてある。服、本、お菓子。
「あった」
お兄ちゃんが持ってきてくれたやつ。ちゃんと入っている。
「よかった」
「それ、大事なんだ?」
声がした。
「え?」
隣の壁の向こう。さっきの人だ。
「お菓子」
「あ」
「入ってた?」
「はい」
「よかったね」
「はい」
なんだろう。変な感じ。顔も名前も知らない。でも、声は普通だった。
「ここ」
私は壁を見る。
「話していいんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「今まで怒られたことないから」
「そういう基準なんですね」
「だいたいそうじゃない?」
「違う気がします」
向こうから少し、笑う声がした。
「さっき」
「うん?」
「怖かったって言ってましたよね」
「言ったね」
「ここに来たとき?」
「うん」
「どれくらい?」
「すごく」
即答だった。
「……すごく?」
「すごく」
「今は?」
「慣れた」
「慣れるんだ」
「慣れたくなかったけどね」
少しだけ答えが遅かった。
「ここ」
ベッドへ座る。
「怖くないんですか?」
「今?」
「はい」
「今日はそんなに」
「今日は?」
「新しい子が来たから」
「私?」
「他にいる?」
「いないです」
「じゃああなた」
また笑う。
「人が来ると嬉しいんですか?」
「ちょっと」
「でも私」
一度、扉を見る。
「ずっといるか分からないですよ」
「それが一番いいよ」
「え?」
「すぐ帰れるなら」
向こうの声は普通だった。
「その方がいい」
「……はい」
帰る。その言葉だけでお兄ちゃんの顔が浮かぶ。夕飯。何作ってくれるんだろう。
たぶん、大したものじゃない。でも、それでいい。
「帰りたい?」
隣の人が聞いた。
「はい」
「そっか」
「そちらは?」
聞いてから少し、まずかったかなと思った。でも。
「帰りたいよ」
普通に返ってきた。
「ずっと?」
「ずっと」
「じゃあ」
言葉が止まる。
「なんでここにいるんですか?」
「それ」
「はい」
「私もたまに思う」
「自分でも?」
「思うよ」
「変なの」
「変だね」
◇
少しして、夕食が来た。扉の小さな口から皿が入る。
「今日の何?」
隣から声。
「え?」
「ご飯」
「まだ見てないです」
「見て」
「はい」
蓋を開ける。
「パンと」
「うん」
「豆のスープ」
「ああ」
「あと魚」
「焼いてる?」
「煮てます」
「今日は当たり」
「これ当たりなんですか?」
「魚がある日は当たり」
「基準低くないですか?」
「ここに長くいると下がるよ」
「嫌だなあ」
「下げない方がいいよ」
「どっちですか」
「難しいね」
向こうで食器の音がする。
「そちらも同じ?」
「たぶん。まだ見てない」
「私に先に見させたんですか?」
「うん。ありがとう」
「ひどい」
少し、笑った。さっきまで怖かった。今も怖くないわけじゃない。でも、思っていたより普通に話せる。
「ねえ」
「はい?」
「あなた、いくつ?」
「十六です」
「若いね」
「そちらは?」
「秘密」
「ずるい」
「女の人に年齢聞くものじゃないよ」
「そちらから聞いたのに」
「私はいいの」
「ずるい」
向こうから笑う声がした。
「家族いる?」
「います」
「さっきの人」
「お兄ちゃん?」
「たぶん」
「声、大きかったですか?」
「かなり」
「やっぱり」
「何回も名前呼んでた」
「恥ずかしい」
「仲いいんだね」
「普通です」
「そういうことにしとく」
「本当に普通です」
「はいはい」
「信じてない」
「信じてるよ」
絶対。信じてない。
「そちらは?」
聞く。
「家族」
少しだけ食器の音が止まった。
「いるよ」
「会えてます?」
「最近はね」
最近。ということは前は会えなかったのかもしれない。それ以上は聞かなかった。
「あなた」
向こうから言った。
「偉いね」
「何がですか?」
「聞かないんだ」
「……聞かれたくなさそうだったから」
「そっか」
「聞いてほしいなら聞きますけど」
「どっちなの」
「分かりません」
「正直だね」
「最近」
考える。
「分からないときは、分からないって言った方がいいかなって」
「いいと思うよ」
「そうですか?」
「うん」
間。
「分からないのに決められる方が」
声が少しだけ静かになった。
「怖いから」
私はスプーンを止めた。
「……そうですね」
それは少し、分かる。
◇
食事が終わった。皿を扉の近くへ置く。
「眠れそう?」
隣から聞かれた。
「たぶん」
「たぶん?」
「こういうところ」
一度、天井を見る。
「慣れてなくて」
「慣れない方がいいよ」
「さっき慣れたって」
「私はね」
「じゃあどうすれば」
「困るね」
「適当だなあ」
「よく言われる」
「誰に?」
「ここの人」
「怒られないんですか?」
「怒られることもある」
「話していいんですか、本当に」
「今さら?」
「確かに」
ベッドへ横になる。毛布は少し薄い。
「寒い?」
「ちょっと」
「棚の下」
「何?」
「もう一枚あると思う」
見る。畳まれた毛布。
「あった」
「ね」
「詳しいですね」
「同じ造りだから」
「隣なのに?」
「だいたい同じ」
毛布を上からかける。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少し、静かになった。壁の向こう。人がいる。それだけでさっきより少し眠れそうな気がする。
「あの」
「うん?」
「一個聞いていいですか?」
「いいよ」
「嫌なら答えなくていいです」
「うん」
私は天井を見たまま聞いた。
「ここから」
言葉を選ぶ。
「出たいですか?」
向こうからすぐに返ってきた。
「出たいよ」
「やっぱり」
「うん」
「じゃあ」
扉を見る。三つの鍵。壁の装置。廊下の兵士。
「出られないんですか?」
間があった。
「それ」
隣の人が言った。
「難しいんだよね」
「難しい?」
「うん」
「鍵がいっぱいあるから?」
「それもあるけど」
声が少しだけ近くなった。壁の向こうで同じようにこちらを向いた気がした。
「たぶん私」
言葉を切る。
「出ようと思えば」
何でもないことみたいに。
「ここから出られるよ」
私は起き上がった。
「……え?」
でも、隣の人はそれ以上何も言わなかった。




