北
北の街まであと少しだった。街道の先から低い唸り声がして、馬が足を止めた。
バレンティアは手綱を引いた。道の脇の茂みが大きく揺れ、魔獣が姿を現した。
四本脚。人の背丈を超える身体。頭から背中まで硬い外殻に覆われている。こちらを見る。
地面を蹴った。速い。バレンティアは馬から降りた。
魔獣が正面から来る。
あと三歩。
二歩。
一歩。
バレンティアが半歩。外へずれた。踏み込む。蹴った。
鈍い音。魔獣の前脚が横へ流れる。そこへ身体ごと、もう一度押し込む。
巨体が進む方向を失い、街道の端へ転がる。
魔獣はすぐに起き上がった。今度は、唸らない。地面を蹴る。もう一度。
正面から来る。そこで初めて、バレンティアは剣を抜いた。
一歩。
剣閃が走る。それだけで硬い角が砕け、遅れて胸を覆っていた外殻も大きく割れた。魔獣が地面へ落ちる。
もう、立たなかった。バレンティアは剣を鞘へ戻した。馬がまだ少し怯えている。
「もういない」
首を撫でる。手綱を持つ。それだけだった。昔ならこんなものは戦ったうちにも入らなかった。
◇
北の街はもう壊れてはいなかった。崩れた家は建て直され、焼けた通りには新しい店が並んでいる。人も歩いていた。
だがバレンティアには元に戻ったようには見えなかった。
「バレンティア様?」
声をかけられて振り返ると、衛兵が立っていた。
「やはり」
「私を知っているのか」
「当時、こちらへ来られていましたから」
「そうか」
衛兵は少し迷ってから頭を下げた。
「妻が」
その先を聞く前に分かった。
「事件で?」
「はい」
「そうか」
それ以上、何を言えばいいのか。今でも分からない。
◇
「私は」
墓地へ向かう途中、衛兵が言った。
「魔女を許せません」
バレンティアは黙って聞く。
「ティリナを知っていた?」
「顔を知っている程度です」
「どんな人間だった」
「悪い娘ではなかった」
少し、声が詰まる。
「だから余計に」
「怖い?」
「はい」
昨日まで普通にパンを買い、道で会えば挨拶をする。そんな人間が突然、多くの人を殺した。
「あなたの娘さんのことも聞きました」
「そうか」
「助けたいのは」
言葉を選ぶ。
「分かります」
「いや」
バレンティアは首を振った。
「それは、分からなくていい」
衛兵が見る。
「あなたは妻を失った」
「あの事件で」
「はい」
「そのあなたに、娘を助けたい父親の気持ちまで理解しろとは言えない」
墓の前で足を止める。
「私は、ティリナを無かったことにはしない」
花を置く。
「そのうえで」
墓を見る。
「なぜそうなったのかを調べる」
◇
記録にも大きな変化はなかった。ティリナ・アルヴェル。B級。直近の判定。
安定。異常なし。事件当日も朝はパンを買い、昼には荷車の故障を手伝っている。
夕方。
暴走した。別の証言でもそこは変わらない。その間に何があった。
◇
「ティリナなら、よく来てたよ」
パン屋の女主人が言った。
「事件の日も?」
「朝にね」
「変わった様子は」
「なかったと思う」
バレンティアは店内を見る。
「事件の前に、彼女のことを聞きに来た人間はいなかったか」
「人?」
「知らない男」
女主人が考える。
「……いた」
衛兵が顔を上げた。
「記録にはありません」
「兵隊さんには話したよ」
「どんな男だった」
「黒い髪」
バレンティアの目が止まる。
「細い人だった」
「年は」
「三十くらい?」
「顔に傷は」
女主人が自分の右頬を指した。
「こっちに、細いのが」
衛兵がバレンティアを見る。
「何を聞かれた」
「ティリナのこと」
「具体的には」
「いつ来るのか」
「毎日か」
「だいたい何時頃か」
女主人が首を傾げる。
「変なこと聞く人だなって思ったから覚えてる」
「いつだ」
「事件のあとじゃないよ」
「前?」
「三日か四日前だったと思う」
バレンティアは何も言わなかった。黒髪。右頬の傷。日々の行動を聞いていた。
事件の三日か四日前。
「あの男は」
衛兵を見る。
「事件が起きてから現れたわけじゃない」




