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ティリナ

「北で暴走した魔法使いだよ」


 部屋が急に静かになった。


「この人が?」


「ああ」


 もう一度、名前を見る。


『ティリナ・アルヴェル』


 市場で聞いた噂を思い出す。


『女の魔法使いが暴れたとか』


『街がなくなったって話もあるぞ』


 あのときは、遠い場所の話だった。


「どんな人?」


 アカポリスはすぐには答えなかった。


「私も会ったことはない」


「知らないの?」


「直接はね」


「じゃあ、なんで名前を知ってる」


「北の件を少し調べたから」


「父さんと?」


「別で」


「別?」


「バレンティアが何か嗅ぎ回ってるのは知ってた」


「何を調べてるかは?」


「全部は知らなかった」


 机の上の黒い欠片を見る。


「だから、私も昔の知り合いに聞いた」


「それで、ティリナ?」


「ああ」


 アカポリスが窓際にもたれる。


「世間じゃ、どう聞いてる?」


「魔女が暴れて、街を壊した」


「だいたいそんなものだね」


「違うの?」


「壊したのは本当だよ」


 言葉が止まった。


 アカポリスは目を逸らさない。


「ティリナの魔法が暴走した」


「……本当に?」


「ああ」


「じゃあ」


「でも」


 言葉を遮られる。


「そこまでだ」


「何が?」


「分かってる事実が」


 アカポリスが指を一本立てる。


「ティリナの魔法は暴走した」


 二本目。


「その結果、大勢が死んだ」


 三本目。


「街も大きな被害を受けた」


 指を下ろす。


「だから、怖がる人間が全部間違ってるわけじゃない」


 何も言えなかった。


 アリナが連れていかれたとき、どうして、子供を助けただけなのに、と思った。


 今も思っている。


 でも、人を殺すほどの暴走が起きたことも事実だった。


「じゃあ、ティリナは危ない人だったの?」


「そこが分からない」


「また?」


「聞け、坊ちゃん」


「聞いてるよ」


 アカポリスが机の資料を一枚取った。


「私が聞いた話だと、事件の朝まで異常はなかった」


「朝まで?」


「ああ」


「魔法が不安定だったとか」


「そういう報告もない」


「誰から聞いたの?」


「生き残った人間」


 俺は顔を上げた。


「知ってるの?」


「一人だけね」


 アカポリスが考える。


「宿屋をやってた男だ」


「ティリナと知り合い?」


「近所だったらしい」


「それで?」


「事件の日の朝も話した」


 アカポリスの声から、いつもの軽さが少し消えた。


「ティリナはパンを買って帰った」


「パン?」


「ああ」


「普通だな」


「普通だったんだよ」


 その言葉が残った。


「昼には、壊れた荷車を魔法で動かすのを手伝ってる」


「人助け?」


「ああ」


「じゃあ、暴走したのは」


「夕方」


 朝。


 パンを買った。


 昼。


 困っている人を助けた。


 夕方。


 街を壊した。


「そんな急に?」


「だから調べてた」


「父さんも?」


「たぶんね」


 俺は箱の中を探す。


「記録ない?」


「焦るな」


「でも」


「あるかもしれないし、ないかもしれない」


 紙を一枚ずつ見る。


 被害記録。器具片。地図。目撃証言。


「あ」


 一枚の端に、父さんの字があった。


『発生前の兆候について再確認』


 その下に、


『近隣住民三名――異常なし』


「これ」


 アカポリスが覗く。


「バレンティアも同じところを見てたみたいだね」


「暴走する前は普通だった」


「少なくとも、証言では」


 黒い欠片を見る。


「黒い石があった」


「ああ」


「右頬に傷のある男もいた」


「ああ」


「でも、それが暴走の原因だったかは分からない」


 机の上の黒い欠片を見る。


「ティリナは、そのあとどうなった?」


 アカポリスの表情が変わった。


「……死んだ?」


「いや」


「じゃあ捕まった?」


「ああ」


 胸が詰まる。


「王国に?」


「そう聞いてる」


「魔女裁判?」


 アカポリスは少し眉を寄せた。


「そう呼ぶ人間もいる」


「危険度を判定されて?」


「ああ」


「何級?」


「知らない」


「アリナみたいに隔離された?」


「最初は」


「最初は?」


 嫌な言い方だった。


「どういう意味」


「そのあと、記録から消えた」


「……消えた?」


「死亡記録は?」


「見つからなかった」


「釈放は?」


「それもない」


「じゃあどこにいるんだよ」


「分からない」


 今度の「分からない」は、今までと少し違った。


 分からないんじゃない。


 あるはずの答えが、どこにもない。


「父さんは、それも調べてた?」


「この名前がここにあるなら」


 アカポリスがティリナの名前を見る。


「その可能性はある」


 もう一度、資料を探す。


 ティリナ。


 拘束。


 その後。


 何かないかと紙の束をめくる。


「坊ちゃん」


「待って」


「何かあった?」


「これ」


 一枚だけ、他と違う紙があった。


 王国の印はない。父さんの字だけで、短い箇条書きが並んでいる。


『ティリナ・アルヴェル』


『暴走以前、顕著な異常なし』


『拘束後、監理院へ移送』


『危険度判定後、隔離区画へ収容』


 そこまでは、アカポリスの話と同じ。


 次。


『収容二十日目――所在確認不能』


「二十日目?」


 読む。


『以後の移送記録なし』


『死亡記録なし』


『処分記録なし』


『隔離解除記録なし』


 その下には、一行だけ強く線が引かれていた。


『対象者所在、不明』


「……人が」


 声が出なかった。


「王国に捕まったあとで、いなくなることなんてあるの?」


 アカポリスは答えない。


「アリナも今、隔離されてるんだよな」


 今度は名前じゃない。


 顔が浮かんだ。


『じゃあ、明日ね』


 アリナ。


 帰ると言った。


 明日。


 なのに。


 父さんが書いた最後の一行を見る。


『対象者所在、不明』


「二十日……」


 口にして、すぐに首を振った。


「違う」


「何が?」


「アリナにも二十日あるって意味じゃない」


 ティリナが二十日目だった。


 それだけだ。


 同じことが起きるかどうかすら、まだ分からない。


 もし起きるとしても、もっと早いかもしれないし、もっと遅いかもしれない。


 でも。


 何もしなくていい理由にはならない。


「アカポリス」


「何」


「監理院に行く」


「坊ちゃん」


「今すぐ突っ込むって意味じゃない」


 息を吐く。


「分かってることを整理する」


 ティリナは監理院へ送られ、隔離されたあと、二十日目に記録上から消えた。


「ティリナが、どこへ消えたのか調べる」


「ああ」


「それと」


 顔を上げる。


「アリナが今、どの段階にいるのかも確かめる」


 少なくとも、どちらも監理院の中で起きていることだ。


「ティリナに何が起きたか分かれば」


 紙を握る。


「アリナに何が起きるかも、少しは分かる」


 アカポリスは何も言わなかった。


「行こう」


「どこへ?」


「監理院について調べられるところ」


 考える。


「まずは、正面から」


「へえ」


「何」


「いや」


 アカポリスが笑いかけて、やめた。


「同じところに、妹さんがいるからね」


「ああ」


 今度は俺も笑えなかった。


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