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消す

 市場は、まだ騒がしかった。


 あれだけのことがあったのに。


 店は開いている。


 人も歩いている。


 肉を焼く匂いまで。


 何事もなかったみたいだった。


「……普通だな」


「市場はね」


 アカポリスが隣を歩く。


「一人の一日が壊れたくらいじゃ、街は止まらない」


「嫌な言い方するな」


「止まってほしかった?」


「そういうわけじゃないけど」


 俺たちがいなくなったあとも。


 誰かが野菜を買って。


 誰かが夕飯を考えていた。


 市場で。


 アリナから押しつけられた紙袋を思い出す。


 三人分。


 もう。


 あの夕飯はない。


「坊ちゃん」


「分かってる」


「まだ何も言ってないよ」


「男が立ってた場所だろ」


「今回は正解」


 見回す。


 あのとき。


 荷車が止まった。


 みんながアリナを見た。


 その中で。


『魔女だ!』


 最初に声を上げた。


「あそこ」


 店と店の間。


 通り全体を見渡せる場所。


 近づく。


「この辺」


 アカポリスが周囲を見る。


 店の壁。


 露店。


 布を張るための木柱。


 その一本の裏側で。


 足を止めた。


「あった」


 木柱の陰。


 二本の線。


 交差している。


「……同じだ」


「学院のとね」


 アカポリスが傷を見る。


「こっちも新しい」


「二つ目」


「ああ」


 学院。


 市場。


 あの男がいた場所。


 どちらにも。


 同じ傷。


「偶然?」


「かなり考えにくくなった」


 アカポリスが立ち上がる。


「次」


「菓子屋」


「行こう」


     ◇


 菓子屋のある通りへ入った。


 店の看板が見える。


 その少し手前で。


 アカポリスの手が。


 俺の胸を押した。


「止まって」


「何?」


「静かに」


 声が変わっていた。


 見る。


 菓子屋の向かい。


 三日前。


 黒髪の男がいたという壁際。


 人がいる。


 背を向けて。


 しゃがんでいた。


「誰?」


「知らない」


 作業着のような。


 地味な服。


 壁へ手を伸ばしている。


 かり。


 かり。


 小さな音。


「何してるんだ?」


「まだ」


 アカポリスが止める。


 男の手元を見る。


 細い金属の道具。


 壁を。


 削っている。


 そこに。


 一本。


 斜めの線が残っていた。


「……あれ」


 声が出た。


 男の手が止まる。


 振り返った。


 目が合う。


 知らない顔。


 市場の黒髪の男じゃない。


 それだけは。


 すぐに分かった。


「何してる」


 俺が言った。


 男が。


 一瞬。


 壁を見る。


 その視線で。


 分かった。


「印を」


 壁。


 削られた跡。


 その下に。


 もう一本。


 薄く残っている。


「消してる?」


 男が走った。


「待て!」


「坊ちゃん!」


 俺も走る。


「店の前にいて!」


「無理!」


「でしょうね!」


 アカポリスが俺を抜いた。


 速い。


 男が通りの角を右へ曲がる。


 アカポリスは。


 曲がらなかった。


「え?」


 左。


 細い路地へ入る。


「そっちじゃ――」


「分かってる!」


 俺も追う。


 狭い。


 人一人が通れるくらいの道。


 洗濯物。


 木箱。


 それを避けながら進む。


 俺が路地を抜けたとき。


 アカポリスは。


 もう先にいた。


 男も。


 いた。


「止まりな」


 アカポリスが弓を構えている。


 男が足を止めた。


 逃げ道の先。


 アカポリス。


 後ろ。


 俺。


「……」


 男の手が動いた。


「坊ちゃん、下がれ」


 男の手の中で。


 小さな金属の器具が。


 光った。


 考えるより先に。


 膝が曲がった。


「伏せろ!」


 その声より速く。


 腕を掴まれた。


 引かれる。


 次の瞬間。


 石畳が弾けた。


「うわっ!」


 砂。


 石。


 視界が白くなる。


 アカポリスが。


 俺を壁の陰へ押し込む。


「そこ!」


 弦が鳴った。


 矢が。


 男の手元を抜ける。


 金属音。


 器具を構えた腕が。


 一瞬だけ下がった。


 でも。


 止まったのは、それだけだった。


 男がもう一度。


 器具を構える。


「来るよ!」


 今度は。


 壁が弾けた。


 石片が飛ぶ。


 アカポリスが俺の前へ入る。


 その隙に。


 男が走った。


「待て!」


 砂埃の向こう。


 通りへ出る。


 人の声。


 荷車。


 足音。


 見えなくなる。


「アカポリス!」


「いるよ」


「追わないの?」


「追える」


「じゃあ――」


「あれが一人ならね」


 言葉が止まった。


「……え?」


 アカポリスが。


 男の消えた方を見る。


「坊ちゃん置いて追いかけて」


 俺を見る。


「後ろから別のが出てきたら、どうするの」


「でも」


「相手が一人だって確認できた?」


「……できてない」


「私も」


 弓を下ろす。


「なら、ここまで」


 悔しい。


 でも。


 言い返せなかった。


「それに」


「何」


「顔は見た」


「知ってる?」


「知らない」


「じゃあ意味ないじゃん」


「顔を知らなかったのが、顔を知らないと分かった」


「何それ」


「大事だよ」


 市場の男じゃない。


 黒い髪。


 右頬の傷。


 あいつじゃない。


 でも。


 こいつは。


 あいつがいた場所の。


 印を消していた。


「戻るよ」


「ああ」


     ◇


 菓子屋の向かい。


 削られた壁。


 さっきの男はいない。


 店の人たちも。


 何が起きたのか分からず。


 通りを見ている。


「これ」


 アカポリスがしゃがむ。


 壁。


 削り粉が落ちている。


「完全には消えてない」


 二本の線。


 一本は。


 途中までほとんど削られている。


 もう一本は。


 まだ残っていた。


「三つ目」


「ああ」


 学院。


 市場。


 菓子屋。


 全部。


 同じ形。


 アカポリスが。


 削られたところへ指を近づける。


「見て」


「何?」


「上は削られてるけど」


 残った溝。


 その端。


「下は残ってる」


「何が?」


「元の傷」


 顔を近づける。


 俺には。


 やっぱりただの傷に見える。


「刃物で切ったの?」


「違うと思う」


「なんで」


「引っかいた傷じゃない」


 アカポリスが。


 残った線をなぞる。


「硬いものを押しつけた跡」


「硬いもの?」


「金属とかね」


 頭に浮かぶ。


 袖口。


 小さな器具。


 黒い石。


「……あの装置?」


「可能性はある」


「でも」


 壁を見る。


「なんで消す」


「そこ」


 アカポリスが言った。


「今日分かったのは、それだよ」


「何?」


「この傷を」


 一度。


 削られた壁を見る。


「わざわざ消しに来た人間がいる」


 黙る。


 誰が。


 なんのために。


 あの男の仲間なのか。


 命令されたのか。


 それとも。


 全然違う理由なのか。


 分からない。


 でも。


 ただの傷なら。


 消す必要はない。


「坊ちゃん」


「何」


 考える。


 学院。


 市場。


 菓子屋。


 あの男がいた場所。


 印。


 消す人間。


 そして。


「……家」


 口から出た。


 アカポリスの顔が変わる。


「何?」


「家にも」


 喉が乾く。


「あるかもしれない」


 もし。


 あの男が。


 屋敷にも来ていたなら。


 そこにも。


 同じものが。


 残っているかもしれない。


 そして。


 誰かが。


 それを消しに来るかもしれない。


 アカポリスが立った。


「戻るよ」


「ああ」


「今すぐ」


 俺たちは。


 走った。

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