空欄
「作成者の名前がない」
ディントがもう一度、書類の端を見る。
「それって変なの?」
「ああ」
返事は早かった。
「監理院の資料には、作成した部署か担当者が残る」
「絶対?」
「少なくとも、俺が見たものは全部そうだった」
アカポリスが横から覗き込む。
「消された?」
「分からない」
「空欄に見えるね」
「最初から書かれていない可能性もある」
「どっちにしても普通じゃない?」
ディントが黙る。
「……そうだ」
初めてだった。
ディントが、王国側の何かを「おかしい」と認めたのは。
「その資料、いつ作られた?」
俺が聞く。
「作成日はない」
「それも?」
「ああ」
「じゃあ何が分かるんだよ」
ディントが紙をめくる。
「受領日は今日だ」
「今日?」
「俺に渡されたのは、アリナを監理院へ連れていったあと」
「その前のことは?」
「分からない」
アカポリスが腕を組む。
「場所だけ先に揃ってる」
「何?」
「市場。菓子屋。学院前」
一つずつ指を折る。
「坊ちゃんたちが今日追ってきた場所が、最初から全部ここにある」
ディントの目が書類へ落ちる。
「……そうだな」
「誰かは、あんたたちより先に知ってた」
「監理院が以前から調べていたなら、おかしくはない」
「それなら誰が調べた?」
ディントは答えない。
「そこが空欄なんだろ?」
「ああ」
風が吹いた。
書類の端が小さく揺れる。
「ディント」
「何だ」
「菓子屋のこと、どこまで書いてある?」
少し迷ってから。
「場所だけだ」
「本当に?」
「ああ」
「白い布のことは?」
ディントの顔が上がった。
「白い布?」
アカポリスも俺を見る。
「坊ちゃん」
「言ってなかったっけ」
「聞いたけど、今それを出す?」
「だって確認した方がいいだろ」
ディントが眉を寄せる。
「何の話だ」
「三日前、あの男が菓子屋に来た」
「それは聞いた」
「アリナが来たら、店の外に白い布を掛けて知らせてくれって頼んだらしい」
「……何?」
ディントが資料へ視線を落とす。
ページをめくる。
もう一度戻す。
「書いてない」
「じゃあ、監理院の資料と男の情報は完全に同じじゃない」
アカポリスが言った。
「少なくとも、これだけじゃね」
少しだけ息を吐く。
同じ場所。
同じアリナ。
でも。
全部が同じわけじゃない。
「じゃあ、別々なのかな」
言いかけて止まる。
アカポリスを見る。
「……まだ決めつけない」
「よろしい」
「なんで先生みたいなんだよ」
「成長を見守ってるからね」
「今日会ったばっかりだろ」
ディントが俺たちを見ていた。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
「もう随分仲がいいなと思って」
「よくない」
「仲良しだよ」
「どっちだ」
「違うって」
少しだけ。
本当に少しだけ。
いつものディントと話している感じがした。
でも。
目に入った騎士団の制服が、それをすぐに消した。
「ディント」
「何だ」
「この資料、調べられる?」
「どういう意味だ」
「誰が作ったのか」
ディントが黙る。
「俺たちじゃ監理院の中までは調べられない」
「……」
「でも、お前ならできるだろ」
「簡単に言うな」
「無理?」
「そうは言ってない」
「じゃあできる?」
「お前、本当に昔から――」
「できるの?」
「話を最後まで聞け」
少し苛立った声。
でも。
断らなかった。
「文書には管理番号がある」
「管理番号?」
「ああ。作成者が書かれていなくても、どこを通って俺のところへ来たかは追えるはずだ」
「じゃあ」
「調べる」
言葉が止まった。
「いいの?」
「何が」
「王国の資料だろ」
「だからだ」
ディントが書類を閉じる。
「正式な資料なのに、作成者も作成日もない」
その目が、少し鋭くなる。
「俺だって気になる」
「怒られない?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「真面目な従騎士」
「だったらなおさら確認する」
アカポリスが笑う。
「気に入ったよ、騎士様」
「従騎士だ」
「そこ本当に大事なんだね」
「大事だ」
「面倒くさいねえ」
「あなたに言われたくない」
やっぱり合わない。
「それで」
ディントが俺を見る。
「お前たちはどうする」
「これ」
壁の二本線を指す。
「調べる」
「何だ、それ」
「分からない」
「傷にしか見えないが」
「私も今のところはそう思ってる」
アカポリスがしゃがみ込む。
「でも、新しい」
ディントも近づく。
「三日前の男がいた場所なんだろ」
「ああ」
「菓子屋にもあった?」
俺とアカポリスが顔を見合わせる。
「……見てない」
「探してないからね」
「じゃあ戻る?」
アカポリスは少し考えた。
「その前に、もう一か所」
「どこ?」
「市場」
「市場?」
「あの男が今日立っていた場所」
なるほど。
三か所。
資料に載っている三か所。
「同じ傷があるか見るんだな」
「そういうこと」
ディントが壁の傷を見る。
「俺も――」
言いかけて止まった。
「何?」
「いや」
「一緒に来る?」
一瞬。
ディントが俺を見る。
でも。
首を振った。
「行けない」
「王命?」
「仕事だ」
「同じじゃん」
「違う」
少しだけ強い声だった。
「俺には俺のやることがある」
書類を持ち上げる。
「これを調べる」
俺は少し黙った。
「……分かった」
「ああ」
「何か分かったら」
「話せることなら話す」
「そこは全部話すって言えよ」
「無理だ」
「真面目」
「うるさい」
ディントが背を向ける。
数歩進んで。
止まった。
「ライク」
「何」
「アリナのこと」
振り返らない。
「俺も、何も知らないまま連れていったわけじゃない」
「……どういう意味?」
ディントの手が、書類を強く握った。
「次に会ったとき話す」
「今話せよ」
「確認してからだ」
「おい」
今度こそ歩き出す。
「ディント!」
振り返らなかった。
その背中を見ながら。
アカポリスが言った。
「追う?」
「……いや」
「へえ」
「確認してからって言った」
「信じるんだ?」
すぐには答えられなかった。
「分からない」
でも。
今度はそれでよかった。
「市場行こう」
アカポリスが笑う。
「そうしようか、坊ちゃん」
俺たちは。
もう一度、あの日常が壊れた場所へ向かった。




