第8話「78点の男」
夜更けの銅鍋亭で、87点の続きが始まった。
卓を挟んで、わたくしとリュカさん。アガットの淹れたお茶からは湯気が立ち、厨房の入り口ではマルセルさんが「うちは宿屋じゃねえぞ」という顔のまま、しっかり聞き耳を立てている。
「最初に申し上げておきますわ。あのテリーヌの技術点は、ほぼ満点でしたの」
「……技術点」
「火入れ、層の設計、香草の比率。減点は塩の2点だけ。つまり残りの11点は、技術ではないところで引かれていますのよ」
リュカさんの眉が険しくなる。職人にとって、技術以外で引かれる11点ほど腹立たしいものはないだろう。分かっていて、わたくしは続けた。
「では90点台の皿の条件を、お教えしますわ。『もう一口が止まらず、食べ終えた後に、誰かに話したくなる皿』。——あなたのテリーヌは、わたくしを黙らせましたの。見事すぎて。でも、もう一口へ手を引いてはくれなかった」
「……意味が、分からない」
「完璧な説得と、誘惑は違うということですわ。あなたの皿は『どうだ』と言っていた。『おいで』とは言っていなかった」
「……なら、訊くが。あんたの100点はどんな皿だ。もう一口が止まらなくて、誰かに話したくなれば、それで100か」
「いいえ、それは90点台の条件と申し上げましたでしょう。100点はね——『点をつけるのを、忘れてしまう皿』ですの」
「……は?」
「わたくし、生まれてこの方、100点を一度もつけたことがありませんのよ。当然ですわね。本当にその皿に出会えたら、その瞬間のわたくしは、採点を忘れているはずですもの。気づいた時には食べ終えていて、ノートは白いまま。——たぶん、永遠に書けない点数ですわ。それでも探していますの。味見係というのは、そういう因果な生き物ですのよ」
沈黙。
リュカさんは長いこと、お茶の湯気を睨んでいた。やがて出てきた声は、低かった。
「……抽象論だ。点数の根拠になっていない」
「あら、ごもっとも」
その反論は正しい。前世の試食会議でも、この手の「言葉にしにくい減点」は必ず突っ込まれた。だから方法もひとつしかない。
「では、実証いたしましょう。今ここで、一皿作ってごらんなさいな」
「……今?」
「厨房はそこ。残り物でしたら、ありますわ。ねえマルセルさん?」
「おい、勝手に——」
マルセルさんは文句を言いかけて、リュカさんの顔を見て、やめた。それから顎で厨房をしゃくった。職人が職人を測る時の、ぶっきらぼうな仁義。
「……火は落としてねえ。使え」
リュカさんは立ち上がって、外套を脱いだ。
厨房に入った瞬間、人が変わった。
いえ、正確には——戻った、のだと思う。竈の火加減をひと目で読み、鍋の位置を確かめ、残り物の籠を検分する。シチューの残りに酢キャベツと黒パン、卵が3つに玉ねぎ。指先が材料の上を一巡りして、献立が組み上がっていくのが見ているだけで分かった。
選んだのは、シチューの残りを使った、パン粉焼きだった。
浅鍋にシチューを敷いて、炙った黒パンを砕いて散らし、卵を落として竈の熾火で焼き上げる。仕上げに酢キャベツを細かく刻んで、ほんのひとつまみ。
手際は、見事のひと言だった。無駄な動きがひとつもない。マルセルさんが思わず唸ったくらい。
焼き上がった皿が、わたくしの前に置かれる。香ばしいパン粉の匂い。とろりと半熟の卵。湯気の奥から、覚えのあるシチューの出汁が、新しい顔をして香ってくる。
「いただきますわ」
ひと口。
……ああ。
うまい。文句なしに、うまい。出汁の厚みに卵のまろやかさが乗って、パン粉の食感が単調さを壊し、刻んだ酢キャベツの酸が全体を引き締める。残り物の再構成として、教科書に載せたい完成度。
でも。
わたくしは匙を置いた。二口目より先に、点数が出てしまったから。
「78点」
リュカさんの息を呑む音が、はっきり聞こえた。
「……下がった、のか。87から」
「ええ。9点分、はっきりと」
「どこが——どこだ。火か。塩か。言ってくれ」
「火は完璧。塩も、今夜は完璧でしたわ」
だから余計に、残酷な点数なのだ。技術の点数ではないのだから。
「リュカさん。あなた、この皿を、誰に食べさせるつもりで作りまして?」
「……は?」
「あのテリーヌには、まだいましたのよ。届けたい誰かの影が。夜会の客を黙らせてやるという敵意でもいい、執念でもいい——とにかく『人』に向かっていましたわ。でも今の皿は、わたくしという審査員にしか向いていない。減点されない皿。正解の皿。……あなた、王宮を出てから今日まで、誰かに料理を食べさせまして?」
リュカさんの顔から、表情が抜け落ちた。
長い沈黙のあと、絞り出すような声がした。
「————数か月、誰にも」
「作っては、いたのでしょうね。手は全く錆びていませんもの」
「安宿の竈を借りて……作って、は、捨てた。食う相手がいない。俺の皿は、もう誰の卓にも乗らない。王宮を出た料理人なんて、そういうものだ」
作っては、捨てた。
その言葉に、厨房のマルセルさんが目を伏せたのが見えた。3年間、磨くだけだった白い鍋を持つ人には、聞き流せない言葉だったと思う。
「なぜ王宮を出ることになったのか、伺っても?」
「……それは」
リュカさんの口が、開きかけて、閉じた。卓の下で拳が固く握られている。
「……言いたくない。今は」
「結構ですわ。実験に不要な変数は、後回しでよろしくてよ」
無理にこじ開ける必要はない。蓋をした鍋は、火にかけ続ければいつか勝手に持ち上がる。
「それより、リュカさん。確認いたしますわね。あなたの今夜の問いは『87点に何が足りなかったか』。答えは出ましたわ。足りなかった13点の名前は——食べる人。そして悪い報せですけれど、あなたの現在地は87点ですらない。78点。このままでは、下がり続けますわよ」
我ながら、容赦のない宣告だと思う。
崖っぷちの人に、あなたの足元は思っているより崖でしてよ、と言っているのだから。
でもリュカさんは、崩れなかった。
俯いて握った拳をじっと見て——それから顔を上げた時、目の中の火が変わっていた。来た時の、追い詰められた火ではなく。
「……更新しに来る」
「あら」
「点数だ。78点を、まず80点台に戻す。それから87を超える。あんたの言う13点の意味を、皿で理解する。……だから」
リュカさんは深く息を吸って、頭を下げた。
「また、ここに来させてくれ。あんたの舌に、何度でも挑ませてくれ」
まあ。
まあまあまあ。なんて良い目をする職人かしら。
「ようございますわ。わたくしの舌は逃げも隠れもいたしません。営業時間外なら、いつでも——」
「おい、待て」
横から、マルセルさんの太い声が割り込んだ。
「うちの厨房を当てにしてんなら、話は別だ。場代を払え」
「マルセルさん、野暮ですわよ。場代なんて」
「金じゃねえ」
マルセルさんは腕を組んだまま、リュカさんを上から下まで眺めた。
「昼の仕込みを手伝え。うちは今、猫の手も借りてえ忙しさだ。……見たところ、あんたの包丁なら猫よりは使える」
猫よりは。王宮の料理人に向かって、猫よりは。
リュカさんは一瞬呆気に取られて、それから、今夜初めて、ほんの少しだけ笑った。
「……猫より、働きます」
商談成立である。人手不足の解消と、78点の男の再起動が、ひと晩でまとめて決まってしまった。銅鍋亭、なんて経済効率のいい夜かしら。
リュカさんが安宿に帰った後、わたくしはノートを開いた。
『リュカ・ミルポワ(元王宮厨房):即興のパン粉焼き78点。技術満点、致命傷は「食べる人の不在」。テリーヌからマイナス9。
処方:毎日、人に食べさせること。銅鍋亭の昼は最適の復帰訓練環境(常連の顔が見える)。
謎:王宮を出た理由。本人、封印中。無理にこじ開けないこと。
所感:87点の作り手を探し出すこと——ノート1ページ目の宿題、本日完了。ただし宿題の答えは、思っていたより手負いだった』
「お嬢様」
アガットが空いた器を片付けながら、いつもの声で言った。
「また点をつけていますね」
「ええ。今夜のは、招待状がわりの点数よ」
78点の男が、明日の朝から銅鍋亭に通ってくる。
あの手が誰かのために動き始めたら、何点まで戻るのかしら。それを最前列で見られるのは、味見係の特権というものだ。
次話:「点数の更新に参りました」




