第9話「点数の更新に参りました」
「点数の更新に参りました」
朝の銅鍋亭に、この挨拶が響くようになって10日になる。
リュカさんは毎朝、開店前にやって来る。まず黙々と昼の仕込みを手伝い——マルセルさんいわく「猫の3倍は使える」——それが終わると、賄いの材料で一皿こしらえて、わたくしの前に置くのだ。挑戦状という名の朝ごはんである。味見係としては役得この上ない。
初日、79点。
3日目、80点。
5日目、81点。
そして今朝の皿は、川魚の香味蒸し。火入れは絹のよう、香草の選びも完璧。
「81点ですわ」
「……また81か!」
リュカさんが頭を抱えた。停滞である。彼の点数はここ5日、81点の壁に張り付いて動かない。
「どこだ。何が足りない。火か。いや火じゃないのは分かってる。塩でも香草でもない。なら何だ」
「申し上げません」
「なぜだ!」
「答えを差し上げたら、それはわたくしの皿になってしまいますもの。あなたの皿の答えは、あなたの目で見つけるものですわ」
意地悪で言っているのではない。78点の夜に、処方箋はもう渡してある。食べる人。あの言葉が彼の中で「誰か」の顔になるまで、点数は動かない。これは技術の壁ではなくて、目線の壁なのだ。
「ぐ……」
「ぐ?」
「……ぐうの音も出ない、と言いたいが出る。納得いかん」
ちなみにマルセルさんは初日から一貫して、この朝の儀式を「若えのが燃料を無駄にしてる」という顔で眺めている。眺めながら、リュカさんの使いやすいように道具の位置をこっそり変えてあげているのを、わたくしは知っている。職人の世話の焼き方は、どうしてこう、全員回りくどいのかしら。
転機は、昼の戦争の中で来た。
その日も満卓だった。リュカさんは厨房の補助に入っていて、注文をさばく手は完璧。でもふと見ると、彼の目が時々、厨房の小窓から客席を覗いているのに気づいた。
最初は、出した皿の評判が気になるのかと思った。
違った。彼が見ていたのは、ジョフロワさんの手元だった。
「……なあ。あの爺さん、肉を残すのか」
「あら、よく気づきましたわね」
ジョフロワさんは毎日来る。毎日完食する。ただし肉のかたまりだけはいつも最後まで残して、時間をかけて少しずつ食べる。
「歯ですのよ。奥歯が、もうほとんどないの。出汁に浸して柔らかくしながら、ゆっくり召し上がっていますのよ」
「……そうか」
リュカさんはそれきり何も言わなかった。
でも翌日の昼、ジョフロワさんの卓に出たシチューは、少しだけ違っていた。肉が、ひと回り小さく切られていた。繊維を断つ向きに、丁寧に。火入れもいつもより長く、匙で押せばほどける柔らかさになっていた。
ジョフロワさんは、気づかなかったと思う。
ただその日、初めて肉を最後まで残さなかった。いつもの半分の時間で器を空にして、「今日のは、いつにも増してうまいの」と笑って帰っていった。
厨房の小窓から、リュカさんがそれをじっと見ていた。
握った拳が、小さく震えていた。
「……食った」
「ええ」
「全部、食った。あの爺さんが。俺の切った肉を、残さずに」
「ええ。見ていましたわ、全部」
リュカさんは小窓から目を離さないまま、掠れた声で言った。
「王宮でも、毎日皿は空いて戻った。残す客なんていない。完食されるのが当たり前で、だから……何も思わなかった。今のが、その、なんだ。妙に」
「嬉しい?」
「————」
返事の代わりに、リュカさんは厨房に引っ込んでしまった。耳が赤かったので、答えは聞かなくても分かる。
そして翌朝。
「点数の更新に、参りました」
いつもの挨拶。でも置かれた皿が、いつもと違った。
川魚のパン粉焼き。ただし骨が、すべて抜いてある。身は食べやすいひと口大で、パン粉の衣は薄く、押せば崩れる火加減。添えられた酢キャベツまで、いつもより細かく刻まれている。
「……これは、どなた仕様かしら」
「爺さん仕様だ。歯が弱くても、骨を気にせず、最後まで熱いまま食える魚料理。……今日の昼、あの人に出したい」
ひと口、いただく。
ああ——変わった。
味の要素は今までと同じはずなのに、皿の向きが違う。技術が「どうだ」と言っていない。全部の工夫が、食べる人の方を向いて「おいで」と言っている。
「84点」
リュカさんが、弾かれたように顔を上げた。
「81の壁、3点抜けましたわよ。おめでとうございます」
「84……っ、何が変わった!? いや——」
言いかけて、リュカさんは自分で口をつぐんだ。それから、ゆっくりと言い直した。
「……分かってる。変わったのは、料理じゃない」
「ええ。あなたの目線ですわ」
あなたの皿は今日、初めて『おいで』と言いましたのよ。
その日の昼、爺さん仕様の魚料理はジョフロワさんの卓に出た。本人は「ほっほう」と妙な声を上げて、骨のない魚を孫の話をしながら平らげる。リュカさんは小窓に張り付いて一部始終を見届けて、マルセルさんに「手が止まってる」と叱られていた。
閉店後。マルセルさんが、前掛けで手を拭きながら言った。
「おい、リュカ」
「はい」
「明日から、昼の品書きに一品持て。お前の皿だ。仕込みから盛り付けまで、全部任せる」
リュカさんが固まった。わたくしも、ちょっと固まる。あのマルセルさんが、自分の店の品書きを他人に開けたのだ。
「……いいんですか。俺は、その。王宮を出た人間で、事情も話していないのに」
「事情なんざ、皿を見りゃ大体分かる」
マルセルさんは銅鍋を磨きながら、こともなげに言った。
「悪さして追われた奴の皿は、卑屈になるか居直るかのどっちかだ。お前のは違う。お前の皿は今日、客のほうを向いてた。それで充分だろうが」
……この親方は、たまに点数より鋭いことを言う。
リュカさんは深く息を吸って、それから王宮仕込みの綺麗な所作で、頭を下げた。
「謹んで。……精一杯やります」
「おう。賄い付き、給金は出世払いだ」
「マルセルさん、それはさすがに搾取では」
「うるせえ、味見係。うちはまだ復興中だ」
笑い声——に近い空気が、閉店後の店に流れた。アガットだけが平常運転で床を掃いていて、でもその箒の動きが、心なしかいつもより軽快だった気がする。
夜、ノートを開く。
『リュカ:84点(81の壁、突破)。突破口は技術ではなく目線。ジョフロワさん仕様の骨なし魚、本人完食。
リュカ、銅鍋亭の昼に正式参加。品書きに一品(明日から)。
所感:「誰のための皿か」が決まった瞬間、同じ技術が3点分美味しくなる。前世の商品開発会議で100回言いたかったことが、この厨房では10日で伝わった』
ペンを置こうとした時、ふと、夕方のリュカさんの言葉を思い出した。
帰り際、彼は出し抜けに訊いてきたのだ。
「あんたは——あんたの点数は、誰の飯で動くんだ」
わたくしの、点数。
「秘密ですわ」と答えた。咄嗟に。
別に隠すことでもないのに、なぜかそう答えてしまって、リュカさんは「ふうん」と言って帰っていった。
……なぜかしら。まだ、わたくしにも分からない。分からないものはノートに書けないので、今夜のところは保留にしておく。
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。明日からは、品書きに新しい一品が増えてよ。楽しみになさい」
次話:「無銭飲食のご令嬢」




