第10話「無銭飲食のご令嬢」
事件は、昼の戦争が一段落した頃に起きた。
その少女は、開店直後からずっと隅の卓にいた。年の頃は16か17。着ているドレスは色褪せて袖口が擦り切れているのに、仕立てそのものは良い。背筋はぴんと伸びて、匙の持ち方は教本のように正確。
そして、よく食べた。
定食をひとつ。シチューのお代わりをひとつ。リュカさんの新作の一皿。白いスープ。仕上げに黒パンを2切れ追加。
細い体のどこに入るのかしらと感心して見ていたら、その子はやがて優雅に口元を拭って立ち上がり、優雅に申し上げた。
「ご馳走さま。お代は——ツケでお願いしますわ」
「うちはツケはやってねえ」とマルセルさん。
「では後日、改めて」
「初めて見る顔だが」
「ごきげんよう」
少女は完璧な淑女の礼をして、完璧な淑女のまま、脱兎のごとく扉へ走った。
その襟首を、いつの間にか扉の前に立っていたアガットが、無言で掴んだ。
「……っ、は、放しなさい! わたくしを誰だと——」
「無銭飲食のご令嬢かと」
「ぐ」
ぐ、ですって。あらあら。
卓に連れ戻された少女は、観念したのか、それでも顎だけはつんと上げたまま名乗った。
「……ニナ・ブリオッシュ。ブリオッシュ子爵家の長女ですわ」
「あら、ご同類」
「同類?」
「わたくしも令嬢の成れの果てですもの。クロエ・ド・サヴァランと申しますわ」
「サヴァラン……っ、断罪の夜の!? まあ、まあまあ、本物ですの!?」
わたくしの悪名、子爵家にまで届いている模様。複雑な気分である。
事情を聞けば、絵に描いたような没落だった。お父上の事業の失敗に、領地の切り売り。屋敷の使用人はゼロ。当主は領地に残り、ニナさんは王都の遠縁を頼って出てきたものの——その遠縁にも体よく断られ。
「で、いつから食べていませんの?」
「……き、昨日のお昼に、水を」
「水は食事ではありませんわね。マルセルさん、白いスープをもう一杯。これはわたくしの奢りですわ」
「え……で、でも」
「空腹の判断は信用できませんのよ。交渉は満腹でなさい。これ、商売の基本ですわ」
ニナさんは唇を震わせて、出されたスープを今度はゆっくり、ゆっくり飲んだ。さっきまでの完璧な所作が少し崩れて、年相応の女の子の顔になった。
さて、お代の話である。
「払えない分は、労働で返していただきますわ。ちょうど人手が欲しかったの。皿洗いから——」
「待って、くださいまし」
ニナさんが器を置いた。それから妙なことを言い出した。
「労働なら、舌でお支払いできますわ」
「……舌?」
「さっきの定食。当ててご覧に入れます」
ニナさんは目を閉じて、すらすらと述べ始めた。
「シチューの出汁は鶏がら。香味は玉ねぎと人参とセロリの葉。香草は2種類、月桂樹ともうひとつは……庭茴香。塩は岩塩、後入れ。とろみの底に、ほんの少しだけパンの酸味。お肉は豚の肩、繊維を断つ向きに切ってありました。それから——」
目を開けて、にこりと笑う。
「魚料理を作った方と、シチューを作った方は、別の人ですわね。包丁の入り方が違いますもの」
店の中が、しんとなった。
厨房からマルセルさんとリュカさんが顔を出して、固まっている。当然だと思う。全問、正解なのだ。庭茴香は今朝リュカさんが試しに足したばかりで、品書きにも書いていない。作り手が2人いることまで、皿の上から読み取った。
「……あなた、その舌、どこで」
「おばあさまの教えですの」
ニナさんはこともなげに言った。
「ブリオッシュ家の女は、代々、食べる前に匂いで中身を読む訓練をしますのよ。食卓に出たものを当てるのは、わたくし、5歳からの遊びでしたわ」
食べる前に、匂いで中身を読む。
それは「遊び」の言い方ではない。前世の感覚で言えば、それは検査の手順だ。なんのために子爵家の女が代々、口に入れる前のものを読む必要が——
考えかけて、やめた。蓋をした鍋は、火にかけ続ければ勝手に持ち上がる。今はまだ、その時ではない。
「合格ですわ。雇いましょう」
「ほんとですの!?」
「ただし舌だけでは雇えませんわ。皿洗いと給仕もセットでしてよ。お給金は日払い、まかない付き」
「まかない……!」
ニナさんの目が、まかないの一語で点火した。この子の行動原理、分かりやすくて好ましい。
というわけで、銅鍋亭に看板娘が加わった。
働かせてみると、これが存外に良かった。淑女教育の賜物で立ち居振る舞いは綺麗だし、客あしらいも如才ない。何より誰よりもよく食べるので、お客様が釣られて追加注文をする。ジョフロワさんなどは早速「嬢ちゃんの食べっぷりは観てて飯がうまい」と上機嫌である。
まかないの時間。ニナさんはシチューを3杯お代わりして、3杯目の途中でふと手を止めた。
「……クロエ様」
「なにかしら」
「このシチュー、68点ですわね」
むせるかと思った。
「あら……あらあら。あなた、点数まで読めますの?」
「クロエ様の採点を昼間ずっと聞いていましたから、物差しを合わせてみましたの。先ほど『68点。香草の時機は直ったけれど、肉の下味がまだ一段浅い』とおっしゃっていたでしょう。わたくしの舌でも、そのくらいですわ」
物差しを、半日で合わせた。
この子、舌が良いだけではない。耳と頭も良い。
「ニナさん。あなた、わたくしの採点に異議がある時は、遠慮なく言ってくださいまし」
「よろしいんですの?」
「ええ。物差しは、2本あったほうが正確ですもの」
ニナさんはぱあっと笑って、「では早速」と人差し指を立てた。
「黒パンの炙り、今日のは10秒長いですわ。香ばしさを2点いただいて、その分しっとりを3点引きます」
「……合計マイナス1点。承りましたわ」
厨房でリュカさんが「俺の炙りが……」と呻いている。賑やかになってきた、この店。
ところで。
その日の夕方、ひとつだけ気になることがあった。
ニナさんはすっかりわたくしに懐いて、「クロエ様、クロエ様」と雛鳥のようについて回る。お茶の時間も当然のようにわたくしの隣に座る。そこまではいい。
お茶を運んできたアガットが、ニナさんの前にカップを置いた時。
こと、と。
ほんのわずか、音がした。
アガットのカップの置き方は、いつだって完全な無音だ。羽根が積もるように置く。それがこの侍女の矜持で、わたくしは3年その音のなさを聞いてきた。
だから、こと、というあの小さな音を、わたくしの耳は聞き逃さなかった。
「アガット?」
「失礼しました。手が滑りました」
顔は、いつも通りの無表情。声も、いつも通りの平坦。
でもその晩、繕い物の籠の中に、ニナさんの擦り切れた袖口が——本人が頼んでもいないのに——丁寧に繕われて畳んであるのを、わたくしは見つけてしまった。
手厳しいのか、優しいのか。
わたくしの侍女は、どうやらわたくしが思っているより、ずっと複雑な鍋らしい。
『本日の収穫:ニナ・ブリオッシュ(17)。絶対と呼びたい舌。材料・工程・作り手の数まで読む。「食べる前に匂いで読む」家伝──要観察。
シチュー68点(ニナ査定も同値)。物差し2本体制、開始。
別件:アガットのカップの音、こと。観測史上初。原因究明は──急がない。これも、土足で踏み込まないこと』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。今日からは、点をつける目がもうひと組増えましたのよ」
次話:「屋台戦争」




