第6話「思い出の味の点数」
試作1号は、開店前の厨房で生まれた。
じっくり炒めて甘みを引き出した玉ねぎ。柔らかく煮た白いんげん豆の裏ごし。仕上げに牛乳をほんの少し。木べらの先から、とろりと白い筋が落ちる。
色は、いい線のはず。真っ白ではない、温かみのある白。
判定者は腕を組んで、匙を取った。ひと口。目を閉じる。
長い、長い沈黙。
「……似てる」
マルセルさんの喉が、ごくりと動いた。
「似てるが——違う。7割は、あいつだ。けど残りの3割が、全部違う」
「具体的に、どこが」
「とろみが上品すぎる。こんな、貴族の出すような滑らかさじゃなかった。それに甘いだけだ。最後にくる、あれがねえ。あと——匂いだ。これは豆の匂いで、冬の朝じゃねえ」
とろみ、酸味、香ばしさ。
未解決の3つが、未解決のまま全部残った。理論通りといえば理論通りで、悔しいといえば悔しい。
ここからが、実験の本番だ。
翌日から、銅鍋亭の閉店後は試作場になった。判定団も増えた。マルセルさんを筆頭に、毎晩なぜか居残るジョフロワさん、匂いを嗅ぎつけて野菜のおまけ付きで現れるロザリーさん。
試作2号。とろみを増すために、じゃがいもの裏ごしを足した。
「重い」とマルセルさん。「これは腹に溜まる白だ。あいつのはもっと、すうっと消えた」
試作3号。牛乳を増やして、軽さを狙った。
「薄情な白だの」とジョフロワさん。「澄ましてやがる。女将さんの白は、もっと愛想が良かったわい」
薄情な白。判定団の語彙、侮れない。
試作4号。酸味の正体を探して、白ワインをひと垂らし。
「喧嘩してるよ」とロザリーさん。「酸っぱいのが、よその子の顔してる。あのスープの酸っぱさはさ、もっと奥のほうから、こっそり出てきたんだよ」
よその子の顔。これも分かる。後から足した酸味は、味の中で浮くのだ。つまりあの酸味は、足したものではなくて——最初から材料の中に、いた。
試作は5号、6号と進んで、白いんげん豆の在庫と一緒にわたくしの仮説も尽きてきた。
夜。判定団が帰った後の厨房で、わたくしはノートを睨んでいた。
とろみ:粒の気配。上品ではない。すうっと消える。
酸味:奥から、こっそり。材料そのものの中にいる。
香ばしさ:冬の朝。戸を開けた時。
ばらばらの3つ。でも、本当にばらばら? 前世の研究で、こういう時はたいてい——3つの謎に、答えがひとつ。
「……おい」
声に顔を上げると、マルセルさんが鍋を見ていた。洗い上げられて、火にかかってもいない、空の鍋を。
「思い出したことが、ある」
「伺いますわ」
「あいつは、歌うんだ。仕込みの時に。鼻歌だ。それで……スープの日は、決まって同じ節だった」
マルセルさんの指が、こつ、こつ、と調理台を叩く。素朴な、3拍子の節。
「その節の時、あいつの手元で……ちぎってたんだ。何かを、こう、両手で」
「ちぎる」
「ああ。粉袋の音じゃねえ。包丁の音でもねえ。ぶつ、ぶつ、と何かをちぎって鍋に落とす音と、あの鼻歌で——うちのスープの朝は、始まってた」
ちぎって、鍋に入れる。
粉でも、包丁で切るものでもない。両手でちぎるもの。
頭の中で、ベルナールさんの声がした。『女将さん、うちの売れ残りをよく買ってったんだ』『固いのがいいのよ、って』。
ジョフロワさんの声がした。『冬の朝みてえな匂い』『寒い朝に外から帰ってきて、戸を開けた時の』——固いパンを、暖炉の火で炙る匂い。
ロザリーさんの声がした。『最後にちょこっとだけ、酸っぱいんだよ』——黒パン。あの黒パンは、種を継いで発酵させる。生地の奥に、もともと酸味がいる。
「……パンだわ」
立ち上がっていた。
「マルセルさん、パンよ。売れ残りの固い黒パン。炙って、ちぎって、スープに溶かすの。とろみの正体は粉でも芋でもない、パン粥仕立て。だから粒の気配が残って、上品じゃなくて、すうっと消える。香ばしさは炙った耳の焦げ。酸味は黒パンの種の酸味。奥からこっそり出てくるはずだわ、生地の中に最初からいるんですもの——」
3つの謎に、答えがひとつ。
売れ残りの、いちばん安い、固くなったパン。
「余りもんで作る飯の、いちばん上等なやつ」
マルセルさんが、自分の言葉を、自分で繰り返した。それから両手で顔を覆って、長い息を吐いた。
「……あいつらしい。あいつらしいよ、畜生」
翌朝。ベルナールさんの店から、昨日の黒パンを買った。固くなったやつを、わざわざ選んで。
暖炉の火で、表面に焦げ目がつくまで炙る。香ばしい匂いが厨房に広がった瞬間、マルセルさんの手が止まったのが分かった。冬の朝の匂い、ここに在り。
炒め玉ねぎ。白いんげん豆の裏ごし。出汁でのばして、炙った黒パンを両手でちぎって、落とす。ぶつ、ぶつ、という鈍い音。マルセルさんはその音を、目を閉じて聞いていた。
パンが煮溶けて、鍋の中がゆっくりと、もったりしてくる。牛乳を回し入れると、色が変わった。
湯気の白。
「……味見は」
「あなたが先ですわ。世界でただ一人の、正解を知る人ですもの」
マルセルさんは匙を取った。掬って、冷ましもせずに、口に入れた。
目を閉じる。
咀嚼が、止まる。
大きな肩が、一度だけ、上下した。
「…………」
言葉は、なかった。代わりにマルセルさんは匙を置いて、厨房の奥へ歩いていって、棚の一番奥から白い琺瑯鍋を下ろした。3年間磨かれ続けた鍋を、両手で。
「……こっちの鍋で、作り直す。スープは、この鍋の仕事だ」
それが、正解の合図だった。
昼。
品書きの板に、マルセルさんが不器用な字で一行を書き足した。
『女将の白いスープ』
最初の一杯は、ジョフロワさんの卓に出た。
ジョフロワさんは、すぐには匙を取らなかった。皿から立つ湯気を、しばらく眺めている。湯気の向こうの何かを見るような目だった。
それから、ひと匙。
ふた匙。
三匙目で、手が止まった。
「————」
声は、出なかった。皺だらけの目尻から一筋つうと伝って、ジョフロワさんはそれを拭いもせずに笑った。
「……おかえり、だの」
厨房の入り口で、マルセルさんが背中を向けた。鍋を磨く音が、やけに長く続く。もう充分に磨かれた鍋だった。
その日、白いスープは昼のうちに売り切れた。ロザリーさんは器を抱えて泣くし、仕立て屋のご夫婦は手を繋いで食べている。ベルナールさんは「うちのパンが、こんなに偉かったとは」と売れ残りの値上げを宣言して、わたくしと真剣な再交渉になった。据え置きで妥結。商売に涙は禁物である。
閉店後。
空になった白い琺瑯鍋の前で、マルセルさんが言った。
「……おい、味見係」
「なんですの」
「点は」
来た。
来ると、分かっていた。だからわたくしも、昼のうちにずっと考えていたのだ。この一皿に、わたくしの物差しを当てていいのか。思い出は採点項目に入れるべきか。
結論。物差しは、曲げない。曲げた瞬間に、わたくしの点数は全部嘘になる。
「78点ですわ」
「……ななじゅうはち」
「ええ。出汁の厚みで7点、パンの炙りの均一さで6点、豆の裏ごしの粒度で……まだ9点分、伸びしろが残っていますの。今日のは再現の初日。女将さんは、これを何百回と作り込んだはずですわ」
マルセルさんは黙っていた。怒るかしら、と思った。
でも返ってきたのは、ふ、と息の抜けるような笑いだった。
「……辛えな、相変わらず」
「辛口は愛のうちですもの」
「78点。——上等だ。残りの22点は」
マルセルさんは白い鍋を、磨き直しながら言った。
「俺が、これから埋める。何百回でも作って、あいつの点まで持ってく。……それでいいんだろう、味見係よ」
「ええ。それが正しい、点数の使い方ですわ」
その夜のノート。
『銅鍋亭・女将の白いスープ(復刻初日):78点。
とろみ=炙り黒パン。酸味=パン種。香ばしさ=炙りの焦げ。3つの謎、答えはひとつ。
所感:レシピの最後の一行は、紙でも舌でもなく、鼻歌の記憶の中にあった。
追記:思い出補正は採点に含めない。ただし記録には残す。——この皿は、この店の魂』
「お嬢様」
アガットがランプを片手に、いつもの平坦な声で言った。
「また点をつけていますね」
「ええ。今日のは、一生残る78点よ」
次話:「行列のできる銅鍋亭」




