第5話「舌は覚えていますわ」
切り出すなら朝一番、と決めていた。
言いにくいことは仕込みの前に。これは銅鍋亭に住み込んで覚えた、この家の流儀だ。マルセルさんは手が動いている間は、耳まで頑固になるから。
「マルセルさん。白いスープを、再現したいの」
厨房の空気が、止まった。
マルセルさんは火を入れかけたかまどの前で、背中を向けたまま動かない。長い沈黙のあと、出てきた声は低く掠れていた。
「……レシピは、ねえ」
「ええ、伺っています。だから——」
「紙にも残ってねえ。あいつの頭ん中にしか、なかったんだ。スープだけは、あいつの領分だった。俺は鍋を覗いたことも、なかった」
覗いたことも、なかった。
その言い方に、後悔の形がそのまま残っていた。
「再現も何も、ねえもんは戻らねえ。……朝から妙な話をするな。掘り返すんじゃねえ」
最後は、ほとんど怒鳴り声だった。マルセルさんは前掛けを叩きつけるように外して、勝手口から出て行ってしまった。仕込みを放り出すなんて、初めてのことだ。
しん、とした厨房で、アガットが静かに言った。
「お嬢様。昨夜の『聞き取りの実験』とは、これでしたか」
「ええ」
「……勝算は」
「あるわ。だって、レシピは消えていませんもの」
わたくしは指を1本、立てた。
「紙には残っていない。女将さんの頭の中は、もう開けられない。でもね、アガット。あのスープを食べた人の舌の中に、味はまだ生きているの。舌の記憶は、本人が思うよりずっと正確よ。——前世のわたくしの仕事は、それを言葉にして、言葉から味を組み立て直すことでしたの」
官能評価、と前世では呼んでいた。人の「美味しい」を分解して、数字と言葉に翻訳する技術。商品開発部で千回はやった。
ただし今回は逆向き。言葉から、消えた一皿を逆算する。
「マルセルさんの許可なしに、進めるのですか」
アガットの問いは、もっともだった。わたくしは首を振った。
「鍋には触れないわ。火も使わない。今日やるのは、聞いて、書くことだけ。……それでもいつか、あの人が『戻りたい』と思った日のために、地図だけは作っておきたいの。地図がなければ、思っても戻れませんもの」
というわけで、聞き取り行脚が始まった。
1人目は、もちろんジョフロワさん。
「女将さんのスープの味、覚えていらして?」
「忘れるもんかい」
即答だった。ジョフロワさんは目を閉じて、ゆっくりと記憶を啜るように話した。
「白いんだ。真っ白じゃねえ。なんというか……冬の朝みてえな匂いのする白よ」
「冬の朝」
「ああ。寒い朝に外から帰ってきて、戸を開けた時の、あの匂いだ。……すまんの、爺の言葉じゃこれが精一杯だ」
「いいえ。最高の証言ですわ」
本当に最高なのだ。匂いの記憶は感情と結びついて残る。「冬の朝に戸を開けた時の匂い」——温かい湯気、薪の火、そして何かが炙られる香ばしさ。情報がぎっしり詰まっている。
2人目、八百屋のロザリーさん。
「あたしゃ味より舌触りを覚えてるね。とろっとしてた。けど牛乳を煮詰めたとろみとは違う。もっと、こう……粒の気配が残るとろみ。あと、ほんのり甘くてさ。最後にちょこっとだけ、酸っぱいんだよ。それが不思議でね」
「甘くて、最後に酸味」
「そうそう。だから飽きないんだ。亭主が風邪ひくたびに買いに行かされたよ。あれは——うん、体が弱った時に染みる味だった」
3人目、パン屋のベルナールさん。
「味は、まあ、うまかったとしか言えねえが……ひとつ妙なことなら覚えてる」
「妙なこと?」
「女将さん、うちの売れ残りをよく買ってったんだ。固くなった黒パンを、安くしとくれって。ほとんど毎日だぞ。銅鍋亭は飯屋だ、パンなら自分とこで仕入れたてがあるだろうに」
「……売れ残りの、黒パンを」
「ああ。聞いたら笑ってやがった。『固いのがいいのよ』って。変わった人だったよ」
ノートに書き留める手が、少しだけ速くなる。固いのがいい。まかない用かしら。それとも。
……いえ、まだ結論は早い。データを集める段階で仮説に惚れ込むと、ろくなことにならない。前世で3回やらかした。
午後までかけて、わたくしたちは7人の舌を回った。ジョフロワさんの孫、ロザリーさんの宿六さん、隣の通りの仕立て屋の老夫婦。証言は少しずつ違って、少しずつ重なっていた。
ついでに仕立て屋の奥様お手製の漬物をいただいたので、礼儀として採点した。61点。塩が3日分濃いけれど、刻んだ香草のセンスは良い。奥様は「あらまあ」と笑っていらした。
夕方。店の卓にノートを広げて、アガットと戦果を並べる。
『白いスープ・証言の重なり
色:白。ただし真っ白ではない(全員一致)
舌触り:とろみ。牛乳のそれではない。粒の気配(3人)
味:ほのかに甘い(5人)。最後にかすかな酸味(4人)
匂い:香ばしい。「冬の朝」「戸を開けた時」(2人)
その他:体が弱った時に染みる(4人)。冬によく出た(3人)
謎:女将さんは売れ残りの固い黒パンを毎日買っていた』
「材料の仮説は立ちますか」
「半分まではね。甘みは、たぶん玉ねぎ。じっくり炒めた玉ねぎの甘さは、砂糖と違って『染みる』甘さになるの。白の正体は豆か、じゃがいもの裏ごしか。牛乳は使っていても脇役。……分からないのは、とろみの正体と、酸味と、香ばしさ。この3つが、まだ繋がらない」
その時だった。
勝手口の戸が、軋んだ。
マルセルさんが立っていた。朝に出て行ったきりの人が、いつからそこにいたのか、戸口の暗がりからこちらの卓を——広げたノートを、見ていた。
気まずい沈黙が落ちる。アガットがすっとノートを閉じようとしたので、わたくしは手で制した。隠すのは、違う。これは隠れてする実験ではない。
「……マルセルさん。勝手なことをしているのは、分かっていますわ。鍋には触れていません。でも、やめてあげられませんの。この店の一番大事な皿の地図を、なかったことにはできませんもの」
怒鳴られるのを、覚悟した。
マルセルさんはゆっくり店に入ってきて、卓の前に立ち、ノートを見下ろした。証言の羅列をひとつ、またひとつと目で辿っていく。その目が「冬の朝」の行で、止まった。
「……爺さん、そんなことを言ったのか」
「ええ」
「……はは」
短く、掠れた笑いだった。
「言い得て妙だ。あいつのスープはな、冬の朝の匂いがしたよ。……俺が言葉にできなかったことを、爺さんの方がよく覚えてやがる」
マルセルさんは椅子を引いて、どさりと座った。大きな両手で顔をひと撫でして、それから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「白は……優しい白だった。雪みてえな白じゃねえ。湯気の白だ。分かるか。鍋から立つ湯気を、そのまま掬って皿に入れたみてえな」
ノートに走り書く。湯気の白。
「あいつは、高い材料なんてひとつも使わなかった。うちは昔から貧乏でな。あれは……余りもんで作る飯の、いちばん上等なやつだった」
「余りもの」
「ああ。何が入ってたかは、知らねえ。知ろうとしなかった。……それが今は、こんなに」
言葉が途切れた。
厨房の棚の、白い琺瑯鍋の方を、マルセルさんは見なかった。見ないように、しているのが分かった。
わたくしはノートの新しいページを開いて、できるだけ事務的な声で言った。事務的な声のほうが、この人は楽だろうから。
「証言は揃いましたわ。明日から試作に入ります。——味の正解判定をできるのは、マルセルさん、世界であなただけ。味見係をお願いできて?」
マルセルさんは長いこと黙っていた。
やがて、ふん、といつもの鼻息の、ずっと小さいやつが返ってきた。
「……飲んで、違うもんを女将さんの名前で出すのだけは、許さねえぞ」
「ええ。それでこそですわ」
それは、引き受けたという意味だった。
『試作開始へ。判定者:マルセルさん(承諾)。
仮説1号:玉ねぎ+白いんげん豆の裏ごし+牛乳少量。とろみ・酸味・香ばしさは未解決のまま挑む。
所感:レシピは紙に書かれていなくても、こんなにたくさんの舌が覚えていた。愛された皿は、消えない』
「お嬢様、また点をつけていますね」
「いいえ、今夜はまだよ。点をつける皿が、まだこの世にありませんもの。——作るのよ、これから」
次話:「思い出の味の点数」




