第3話「62点の定食」
マルセルさんと朝の市場に通い始めて、5日が経った。
香草を覚え、人参の置き場を覚え、シチューは55点まで来た。23点の鍋が、半月もかからずに2倍以上。我ながら良い仕事だと思う。
お客様も、1日にひと卓、ふた卓と戻り始めている。ジョフロワさんは毎日来る。昨日は孫を連れてきた。
でも。
「マルセルさん。この店、足りないものがありますわ」
「あ? まだ何か削る気か」
「逆ですの。シチューが美味しくなった今、シチューしかないことが問題なんですのよ」
昼下がりの空いた時間、わたくしは卓の上に器を3つの位置に並べてみせた。真ん中にシチュー。右に何もない皿。左にも何もない皿。
「お客様の舌は、続けて同じ味を食べると飽きますの。どんなに良い味でも。濃いシチューの合間に挟む、淡いもの。脂を切る、酸っぱいもの。これがあると、最後の一匙までシチューが美味しいまま終わる」
「……皿を増やせってか。手が回らねえ」
「手のかからないものから始めますわ。まず、パン」
「パンなら出してるだろうが」
「あの硬い黒パンを、そのままどん、と。あれではシチューの家来になれていませんもの」
というわけで、午後。わたくしとアガットは3軒先のパン屋に向かった。
パン屋の主人はベルナールさん。マルセルさんと同年配で、こちらは痩せて背が高い。無口の度合いはマルセルさんと良い勝負だけれど、店先に並んだ黒パンの焼き色は揃っていて、腕は確かだ。
「ごめんくださいまし。銅鍋亭の味見係ですわ」
「……噂の。点付けの嬢ちゃんか」
あら。その呼び名、もう3軒先まで届いていますのね。
「本日は商談に参りましたの。昨日までの売れ残りの黒パン、ありますこと?」
「売れ残り? 硬くなってるぞ」
「硬くなっているのが良いんですの」
前世の知恵というほどのものでもない。硬くなったパンは薄く切って炙り直せば、焼きたてにはない香ばしさが立つ。にんにくを擦り付けて油をひと刷毛。シチューに浮かべれば、出汁を吸ってもふやけ切らない、最高の相棒になる。
「毎朝、前日の黒パンを定価の半値で銅鍋亭に。いかがかしら」
「……売れ残りに値が付くなら、こっちは損がねえが」
ベルナールさんは疑り深い目でわたくしを見て、それから、ぼそりと付け足した。
「嬢ちゃん。ついでにうちの新作も、点とやらをつけてくれ。女房が蜂蜜を練り込んだってえ自慢の白パンだ」
差し出された白パンを、ひと口。
……ふむ。
「65点。蜂蜜の香りは良いのに、練り込みすぎて気泡が潰れていますわ。蜂蜜は生地に混ぜず、焼き上がりに塗ってごらんなさい。香りが表面で立って、点数は10は上がりましてよ」
「……練り込まずに、塗る」
ベルナールさんが固まって、それから猛烈な速さで店の奥に引っ込んだ。粉の舞う音がする。職人という生き物は、どこの業界でも同じらしい。
帰り道、アガットが言った。
「お嬢様。商談のたびに点をつけていたら、王都中の職人が改良を始めます」
「あら、結構なことじゃありませんの」
「結構ですが、無償です。お嬢様はもう少し、ご自分の舌の値段をご存じになるべきかと」
辛口の侍女である。でもノートの予備を12冊も詰めてくれた人の言う「値段」は、お金の話ではない気がした。
さて、定食計画のもうひと皿。酸っぱいもの。
これはわたくしが厨房に立った。といっても煮込みではない。千切りキャベツを塩で揉んで、酢と砂糖ひとつまみ、香草の実をぱらり。寝かせるだけの酢キャベツ。火を使わないから、マルセルさんの邪魔をしない。
「アガット、キャベツの千切りをお願い。わたくしより上手でしょう」
「かしこまりました」
アガットの包丁は、見ていて気持ちがいい。とん、とん、と一定の律で絹糸みたいなキャベツが積み上がっていく。太さが全部、揃っている。定規で引いたみたいに。
「あなた、本当に器用ね。味付けもやってみる?」
「……いえ」
ほんの一拍、間があった。
「切るだけで結構です。味は、お嬢様の領分ですから」
まあ、彼女がそう言うなら。わたくしは酢の加減に戻ったけれど、あの一拍の間は、なんとなくノートの隅に書き留めておいた。理由は自分でもよく分からない。実験者の勘というやつ。
3日後。
銅鍋亭の卓に、初めての「定食」が並んだ。
主役は55点のシチュー。右脇に、炙ってにんにく油をひと刷毛した黒パン2切れ。左脇に、よく冷えた酢キャベツの小鉢。
最初のお客様は、当然のようにジョフロワさん。
「ほう。賑やかになったの」
シチューをひと匙。パンを浸してひと齧り。酢キャベツをつまんで、また、シチュー。
わたくしは観察した。匙の戻る速さを。前世の試食会で千回見た、あの指標。途中で速くなる食べ方は、本物。
ジョフロワさんの匙は、後半に行くほど速くなった。
「……不思議なもんだ。シチューの量は同じはずなのに、今日のは最後のひと口まで減らねえ気がしたわい」
いただきました。それは満点の褒め言葉ですわ。
厨房に戻って、わたくしは宣言した。
「定食として、62点」
「62……シチュー単品より上がったな」
「ええ。皿の組み合わせというのは、それ自体が調理ですのよ。これで銅鍋亭は『シチューの店』から『食事の店』になりましたわ」
「ふん。……62点の店、か」
マルセルさんの声が、まんざらでもない。23点の男だった人とは思えない余裕である。
その晩のこと。
閉店後の厨房で洗い物を手伝っていて、わたくしは棚の一番奥に、それを見つけた。
白い琺瑯の鍋。小ぶりで、縁が少し欠けていて——埃をかぶっていない。
使われていないのに、磨かれている。
この符号を、わたくしは知っている。ひと月近く毎日磨かれていた、客のいない店の銅鍋と同じ符号だ。
「マルセルさん。この白いお鍋、スープ用ですわね。深さと縁の形がそう言っていますわ。品書きにスープがないのは、何か——」
「触るな」
声が、低かった。
怒鳴り声ではない。むしろ静かで、だからこそ、今までのどの「ふん」とも違っていた。マルセルさんは洗い場から動かないまま、こちらを見もしないで続けた。
「……それは、うちの品書きにはねえ。今後もだ」
わたくしは黙って鍋を棚に戻した。
詮索しなかった。実験には、触れていい変数と、まだ触れてはいけない変数がある。
でも2階に上がる前、アガットが囁いた。
「お嬢様。昼間、ジョフロワ様のお孫さんから聞きました。銅鍋亭には昔、名物があったそうです」
「あら」
「白いスープ。女将さんの白いスープと、皆そう呼んでいたと。——3年前、女将さんが亡くなってから、品書きから消えたそうです」
3年前。
味が迷子になった、3年前。
寝台に入る前、ノートに今日の分を記す。
『定食62点(シチュー55・黒パン・酢キャベツ)。ベルナール氏の白パン65点、改良案進呈済み。
別件:白い琺瑯鍋。女将さんの白いスープ。3年前。——要調査。ただし、土足で踏み込まないこと』
最後の一行に、線を2本引いた。
「お嬢様、また点をつけていますね」
「ええ。でもね、アガット」
ランプを消しながら、わたくしは呟いた。
「この店で一番大事な皿には、まだ点がつけられていない気がするのよ」
次話:「市場は宝の山」




