第2話「辛口は愛のうち」
とん、とん、と床板の下から包丁の音がする。
目を開けると、見慣れない木の天井。一瞬どこだか分からなくて、それから思い出した。銅鍋亭の2階。昨夜アガットが3時間かけて物置から救出した、わたくしたちの新しいお部屋。
窓の外はまだ薄暗い。それなのに、階下からは包丁の音と、水を使う音。
「アガット、起きてる?」
「2時間前から」
隣の寝台から即答が返ってきた。この侍女、いつ寝ているのかしら。
身支度をして階段を降りると、厨房に灯りがともっていた。マルセルさんが大鍋の前に立って、玉ねぎを刻んでいる。前掛けの紐がきっちり結ばれていて、まな板の周りには切り屑ひとつ落ちていない。
やっぱり。この人、根は几帳面な職人だ。
「おはようございます、マルセルさん」
「……客は昼からだ。寝てろ」
「味見係の出勤時間は、仕込みの始まりと同じですわ」
返事の代わりに、ふん、と鼻息がひとつ。昨夜より敵意が薄い。半歩前進。
わたくしは厨房の隅に立って、ノートを開いた。今日の議題は昨夜申し上げた3つ。灰汁、野菜の順番、塩。
最初の関門は、すぐに来た。
鶏がらを水から煮立てて、鍋の縁に小さな泡が立ち始めた頃。マルセルさんがお玉を持って鍋の前に仁王立ちした。沸かしてから灰汁を取る構え。
「マルセルさん、まだですわ」
「あ? 灰汁ってのは沸いてから出るもんだろうが」
「沸いてから取ると遅いの。沸く直前——表面がゆらりと持ち上がる瞬間に、灰汁は一番よく集まりますのよ。そこを一気に」
「俺は30年この鍋をやってる」
「では30年分の癖と、わたくしの目と、どちらが正しいか実験いたしましょう。鍋は2つありますわね」
マルセルさんの眉がぴくりと動いた。職人に「実験」は効く。昨夜学んだ。
小鍋を2つ並べて、同じ鶏がらを煮る。片方はマルセルさん流、沸いてから灰汁を引く。もう片方はわたくしの合図で、沸く直前に引く。
30分後。
「…………」
マルセルさんが2つの鍋を交互に覗き込んで、黙り込んだ。
差は、目で見えた。沸かせた方はうっすら濁って、灰汁の細かい粒が出汁に散っている。直前に引いた方は——澄んでいる。鍋の底が見えるくらい。
「……ぐ」
「ぐ?」
「……ぐうの音も、出ねえ」
素直!
思わずノートに『マルセルさん、意外と素直』と書きそうになって、やめた。代わりに『灰汁:解決』と書く。
2つ目の野菜は、もう少し揉めた。
「人参を先に入れて、じゃがいもは後。煮え方が違うんですもの」
「手間が増える」
「手間の分だけ点が増えますのよ」
「鍋に入れる順番ごときで味が変わってたまるか」
「変わりますわ。じゃがいもの煮崩れた澱粉が出汁を濁らせて、その濁りが舌の上で人参の甘みを覆い隠す。昨日のシチュー、人参の味がしましたこと?」
マルセルさんが黙った。していなかったのだ、人参の味が。本人の舌が一番よく知っている。
……いえ。
本人の舌が知っているなら、どうして。
3つ目の関門の前で、わたくしは少し迷った。これは技術の話ではないから。
「マルセルさん。最後は、塩ですけれど」
とん、と包丁の音が止まった。
広い背中がこちらを向かないまま、低い声が言った。
「……分かってんだろ、あんた。昨日言い当てたんだから」
「ええ」
「味見はしてる。毎日してる。けどな」
マルセルさんはお玉を置いて、自分の舌を、親指でぐいと押さえた。
「こいつが、信用ならねえ。正しい味は頭ん中にあるんだ。なのに舌が、届いてるのか届いてねえのか、教えてくれねえ。だから塩を足す。足したら今度は怖くなる。その繰り返しだ」
迷子の味の、正体。
料理人にとって、自分の舌が信じられないというのは——前世で言えば、研究者が自分の測定器を信じられないようなもの。怖かっただろうと思う。誰にも言えなかっただろうとも。
だからわたくしは、できるだけ軽い声で言った。
「では、わたくしの舌をお使いなさいな」
「……あ?」
「味見係ですもの。塩の最終判断はわたくしがします。あなたは入れた塩を、匙で数えて記録するの。今日の鍋に小匙いくつ、と数字で書き残す。数字は舌と違って、迷子になりませんわ」
マルセルさんが、ゆっくりとこちらを向いた。
「……記録、だと」
「ええ。レシピを紙に下ろすんですの。頭と舌の中にしかなかったものを、全部」
「職人の仕事を、紙ごときに」
「あら。紙を侮ってはいけませんわ」
わたくしはノートを掲げてみせた。
「わたくしの前世——わたくしの故郷では、こう言いますの。『記録されない実験は、なかったのと同じ』。あなたの30年を、なかったことにしたくないのよ、わたくし」
マルセルさんは長いことわたくしのノートを見ていた。それから何も言わずに棚を漁って、埃をかぶった帳面を引っ張り出した。仕入れの記録用らしい。その白いページを開いて、炭筆を舐めて、不器用な字で書いた。
『しお こさじ みっつ』
その字が妙に丁寧で、わたくしは笑いそうになるのを堪えるのに苦労した。
昼。
開店と同時に、扉の鈴が鳴った。お客様第1号は腰の曲がったお爺さん。常連——だった人らしい。マルセルさんが「ジョフロワの爺さん」と呟いたきり、固まっている。
「久しぶりだの、マルセル。……表の匂いが、ちっとばかし変わった気がしてな」
ジョフロワさんは卓に着くと、注文も言わずに待った。シチューしかない店だと知っている座り方だった。
マルセルさんが器によそう。手が、少し震えている。
わたくしとアガットは厨房の陰から見守った。アガットがいつの間にか、わたくしの手にノートを握らせている。気が利きすぎて怖い。
ジョフロワさんは一匙すくって、ふうふうと冷まして、口に入れた。
咀嚼。沈黙。もう一匙。
「…………」
また一匙。今度は人参を。
「……マルセルよ」
「お、おう」
「懐かしい方向に、半歩戻った」
たった半歩。でもジョフロワさんはそれきり何も言わずに、最後まで食べた。鍋底の一滴まで、パンで拭って。
帰り際、銅貨を多めに置いていこうとするのをマルセルさんが突き返した。老人二人が無言で銅貨を押し付け合う謎の時間があって、結局ジョフロワさんが勝った。
扉の鈴が鳴って、静かになる。
マルセルさんはしばらく卓の上の空の器を見ていた。
「……おい、味見係」
「なんですの」
「点は」
来た。
わたくしは新しいシチューを小皿に取って、改めて味わった。澄んだ出汁。ちゃんと甘い人参。塩は小匙3つで、まだほんの少し強いけれど、もう壁ではない。焦げの苦味は消えた。灰汁の渋みも消えた。
残っているのは——伸びしろ。肉の下味、香草の不在、パンとの相性。言いたいことはまだ山ほどある。
「41点ですわ」
「よんじゅう……」
マルセルさんの肩が、がくりと落ちた。
「23から41。倍近く伸びて、まだ半分にも届かねえのか」
「あら、落ち込むところではありませんわよ。1日で18点ですわ。王都広しといえど、1日で18点も美味しくなった鍋は、今日この店にしかありませんもの」
「……あんたの口は、どうしてそう」
「辛口ですって?」
わたくしはノートに41点と書き込みながら、申し上げた。
「お言葉ですけれど、マルセルさん。わたくし、見込みのない皿に点数なんてつけませんの。黙って残して、二度と来ないだけ。点をつけるのは、伸びると分かっている皿だけですわ」
マルセルさんが、目をしばたたいた。
それから、ふん、といつもの鼻息をついて、鍋に向き直った。耳が少し赤かったのは、かまどの火のせいということにしておく。
「……明日は、香草を試す。文句あるか」
「ございませんわ。市場で良い香草の選び方、お教えしましょうか」
「いらん。……いや」
お玉が止まって、低い声が付け足した。
「……ついて来い。どうせ口を出すんだろう」
あらあら。
雪解けが、思ったより早い。
その夜、ノートに記録する。
『銅鍋亭のシチュー・41点(前日比+18)。灰汁・野菜順は解決。塩は数値管理に移行。残る課題:下味、香草、パン。
所感:この店に必要なのは新しい技術ではなく、自分の舌の代わりに「大丈夫」と言ってくれる誰かだったのかもしれない。当面、わたくしがその係』
「お嬢様」
寝台の上から、アガットの平坦な声。
「また点をつけていますね」
「ええ。今日のは、つけていて気持ちのいい点でしたわ」
明日は市場。香草と、それから人参を山ほど買わなくては。
半歩戻ったなら、あと何歩かしら。数えるのはわたくしの仕事だ。
次話:「62点の定食」




