第30話「フルコースの一皿目」
その夜の銅鍋亭は、閉店後なのに満席だった。
といっても、お客様はいない。マルセルさんとアガットとニナさん、こっそり居残ったジョフロワさん、配達のついでに居座ったロザリーさん。皆、知っているのだ。今夜、リュカさんが「勝負の皿」を出すことを。
厨房からは、もう半刻も、静かな音だけが聞こえている。包丁の音。火の音。型に流す、とろりとした音。
「……緊張しますわね、ニナさん」
「クロエ様が緊張してどうしますの。採点する側ですのよ」
「採点する側にも、緊張はありますのよ。特に今夜のは」
1ページ目の皿だ。
断罪の夜のテリーヌ。すべての始まり。わたくしのノートの最初の宿題で、87点の、歴代3位——いまは5位まで下がったけれど、わたくしの中ではずっと特別な位置にある皿。あれを、今のリュカ・ミルポワが作り直す。
やがて、厨房の扉が開いた。
白い皿の上に、テリーヌが一切れ、置かれていた。
断面の層が、燭台の灯りにつやめいている。豚の赤と背脂の白の幾何学。あの夜と同じ構図——いいえ、違う。層の数が増えている。間に挟まった野菜の色が、橙と緑で差している。ロザリーさんの規格外人参の橙。下町の畑の青菜の緑。
「3年前のは、王宮の素材で作った」
リュカさんが、皿をわたくしの前に置いた。
「今夜のは、全部この町のものだ。豚はロザリーさんの目利き。香味は市場の屑箱の宝。縁の煮こごりにはギルドの胡椒。パンを添える発想は——うちの白いスープから。型の締めの一手は、師匠の改定座で盗んだ」
「……王都の総力ですわね」
「ああ。それと」
リュカさんは、一拍置いて、言った。
「3年前のあれは、夜会の客を黙らせるための皿だった。今夜のは違う。——食べてくれ、味見係。あんたのために焼いた」
どん、と例の音が胸で鳴ったけれど、今夜ばかりは職務優先である。
ナイフを入れる。煮こごりの膜が薄く割れて、層は崩れない。完璧な弾力。フォークに載せた断面から、香草と胡椒の香りが立ちのぼって、その奥に、焼いたパンの香ばしさがほのかに——
一口。
——気がつくと、わたくしは二口目を口に運んでいた。
膝の上のノートが、床に滑り落ちていた。拾うより先に口が勝手に動いて、「ねえ、これ」と誰かに言いかけていた。視線を上げるとニナさんと目が合って、その顔がにんまりと笑っている。
……あら?
あら、あら、あら。
「クロエ様、今、何秒でした?」
「3秒です」と、アガットが時計係みたいに即答した。「お嬢様がノートを落として、お顔から採点が消えていた時間。3秒ございました」
3秒。
わたくし、3秒間——味見係を、やめていた。
点を、忘れていたのだ。生まれて初めて。皿を分解せず要素を読まず、数字も探さず、ただの食いしん坊として二口目に手を伸ばしていた。
ノートを拾い上げる手が、少し震えた。武者震いというものを、わたくしは今夜初めて理解した。
「——採点いたしますわ」
店中が、息を呑んだ。
「95点。歴代1位。文句なしの、更新ですわ」
わっ、と店が沸いた。ニナさんが跳ね、ロザリーさんが手を叩く。ジョフロワさんが「持つべきものは若えもんだの!」と杯を上げ、マルセルさんは黙って厨房から祝いの蒸留酒を持ってきた。
リュカさんだけが、動かずに、じっとわたくしを見ていた。
「……内訳を、聞かせてくれ」
「ええ、もちろん」
わたくしはノートを開いた。指は、もう震えていない。
「技術は、ほぼ完璧。3年前の減点だった煮こごりの塩は、今夜は寸分の狂いもありませんでしたわ。層の設計は当時より2枚深くて、しかも喧嘩がない。香りの立ち上がりに温度、断面の美——どこを切っても、90点台の条件を全部満たしていますの。もう一口が止まらず、誰かに話したくなる皿。現に止まりませんでしたし、話しかけましたわね、わたくし」
「……なら、残りの5点は」
「100点はね、リュカさん」
わたくしは、いつかの夜の定義を、もう一度言った。
「点をつけるのを、忘れてしまう皿。——わたくし今夜、3秒だけ忘れましたのよ。たった3秒で、95点ですわ。最初から最後まで、丸ごと忘れさせてごらんなさいな。その時が、100点」
リュカさんは目を見開いて、それから、天井を仰いで長く息を吐いた。
「……3秒か。3秒、奪ったか。あんたの舌から」
「ええ。前人未到の3秒ですわ」
「なら、次は10秒だ」
「異議あり、ですわ!」
ニナさんが、ぴしりと手を挙げた。
「わたくしの舌では96点ですの。締めの戻り香、クロエ様は短いとお取りでしょうけれど、あれはわざと短く切ってありますのよ。次のひと口を呼ぶために」
「……ほう。理由つきの異議、いいものね。——でも、却下ですわ。呼ばれた次のひと口が着地するところまで含めて、わたくしは余韻と数えますの。よって95」
「むう。いつか覆しますわ」
物差しが2本ある食卓は、騒がしくて、正確だ。リュカさんが「96……」と小声で繰り返していたのは、聞かなかったことにしてあげる。
その目に宿った火を見て、わたくしは確信した。この人はもう、崖っぷちの料理人ではない。100点という地平線に向かって歩くと決めた、わたくしと同じ種類の、業の深い生き物である。
さて。ここからが、今夜の本題だ。
わたくしは立ち上がって、ノートの新しいページを、皆に向けて開いた。
『フルコースの一皿目、候補に登録。
主菜:リュカ・ミルポワのテリーヌ(95点)』
「皆さま、聞いてくださいまし。わたくしの夢の話ですわ」
殿下にしか話していなかった夢を、今夜、この食卓に出す。
「一皿の100点を、わたくしは一生探し続けますわ。たぶん、見つからないまま。それでいいんですの。でも——食事は、皿の足し算ではなく掛け算。組み方次第で、一皿の限界を超えられますのよ。62点の定食が、74点になったように。御前の鍋に、この食卓の顔ぶれが何点も足したように」
ページを、めくる。
「120点のフルコースを、作りますわ。前菜にスープ、魚に肉に甘味。一皿ずつ世界中から探して、育てて、並べますの。皿の順番と温度の流れ、誰と食べるかまで全部設計した食卓。一皿では絶対に届かない場所に、食事として届く——それがわたくしの、生涯の研究課題ですわ」
店の中は、静かだった。
呆れられたかしらと思った瞬間、マルセルさんが、ふんと鼻を鳴らした。
「スープは決まってるんだろうな、おい」
「……ええ。候補筆頭は、この店の白いスープですわ」
「なら文句ねえ。やれ」
「主菜の候補は今夜登録済みですわね。前菜と魚は白紙。甘味は——」
「甘味は、当てがある」
リュカさんが、こともなげに言った。
「あんた、この前の焼き菓子、採点できなかっただろ。あれを磨く。点がつけられない皿ってのは、調べる価値がある」
「————そ、それは観測機器側の問題ですので候補登録は時期尚早ですわ」
「観測機器?」
「こちらの話ですわ!」
ニナさんがにやにやし、アガットが完全な無音でお茶を注ぎ足した。この店の人間は、全員、目と耳が良すぎる。
夜が更けて、皆が帰って、わたくしは2階の窓辺でノートを開いた。
1ページ目。『王宮夜会のテリーヌ・87点。作り手不明——必ず探し出すこと』。
最新のページ。『フルコースの一皿目、候補に登録。主菜:リュカ・ミルポワのテリーヌ(95点)』。
同じ作り手の、同じ皿の名前が、ノートの最初と最後にある。87点は95点になって、不明だった作り手は、明日も隣の厨房に立っている。
悪くない。悪くないどころの話ではない。
でもね——まだ、終わりではないのだ。95点の上には100点の地平線があって、一皿の向こうにはフルコースの設計図があって、その食卓に並べる椅子の数を、わたくしはまだ数え終えていない。
『今夜の記録:テリーヌ95点(歴代1位)。観測機器、3秒間の機能停止(史上初)。
フルコース計画、始動。主菜候補1、スープ候補1、前菜・魚・甘味は白紙。
白紙というのは、良いものですわね。これから書けるという意味ですもの』
「お嬢様。また点をつけていますね」
階段の下から、アガットの声がした。
「ええ。——歴代1位を、ね。それと明日からは、点だけじゃなくて、設計図も描きますのよ」
次話:「次のページは白紙」




