第27話「伝統と革新の晩餐会」
その日の閉店間際、銅鍋亭の扉が、ゆっくりと開いた。
白い料理着ではなく、地味な外套姿。それでも背筋だけで誰だか分かる人が、戸口に立っていた。
「……約束通り、来た」
王膳長ボリス・ブレゼ。御前で「近く行く」と言った人は、本当に来た。供も付けず、徒歩で、橋を渡って。
先客はジョフロワさんだけだった。爺さんは新顔の老人をじろりと眺めて、悪気なく言った。
「ほう、見ねえ顔だの。どこの隠居だ? まあ座んな、ここのスープは王様の鍋よりうめえぞ」
「————ほう」
ボリス氏の眉が、ぴくりと動いた。ニナさんが息を呑み、リュカさんが固まり、わたくしは笑いを堪えるのに苦労した。王様の鍋を作っている本人に、王様の鍋より美味いと宣伝する常連。下町、恐るべし。
ボリス氏は何も明かさずに席に着いて、白いスープを注文して、無言で一杯を食べ切った。それから器を置いて、厨房に向かって言った。
「……店主。この鍋は、誰の型だ」
「死んだ女房のだ」とマルセルさん。「レシピは残ってねえ。そこの味見係と町の連中の舌で、掘り起こした」
「舌で、掘り起こした」
ボリス氏は、しばらく黙った。
「……王膳所の書庫には、200年分の型が紙で残っておる。儂はそれを守るのが役目だ。だが紙に残っても、死ぬ型は死ぬ。紙に残らんでも、生きる型は生きる。……今日は、それを確かめに来た」
そして王膳長は、外套を脱いで畳み、袖をまくった。
「厨房を、借りる。——ミルポワ。手伝え」
リュカさんの背筋が、音が鳴りそうな勢いで伸びた。
「……はいっ」
「店主。お前さんもだ。儂は下町の竈を知らん」
「……ふん。王様の料理人に貸す竈はねえが」
マルセルさんは前掛けの紐を、ぐいと締め直した。
「『隠居の客人』になら、貸してやらあ」
こうして銅鍋亭の厨房に、料理人が3人並んだ。王膳長と、その元弟子と、下町の親方。三世代ぶんの手が、ひとつの竈を囲んだ。
作るのは、雉の祝いの鍋——御前で92点だった、あの範例の改良である。
「脂だ」とボリス氏が言った。「点付けの言う通り、今の雉は脂が乗る。型の下処理では、汁が曇る。……ミルポワ。お前なら、どう直す」
「湯通しの前に、皮目だけ軽く炙ります。脂を半分落として、香ばしさに変える。……母に作っていた頃の、癖ですが」
「やってみせろ」
リュカさんの手が、雉の皮目に火を走らせる。じゅ、と脂の爆ぜる音。ボリス氏はその手元を、秤の目でじっと見て——小さく頷いた。
「塩は」とマルセルさん。「うちの客なら、型の半分でいい。その分、出汁を一段濃く引く。……あんたの200年に、文句つける気はねえがな。うちの町の体は、うちが知ってる」
「ならば両方だ。出汁を濃く、塩は半分。物足りなければ、卓で足せばいい。——足せる形にしておくのも、型のうちだ」
口数の少ない3人が、鍋の上でだけ、驚くほどよく喋った。職人の会話は言葉の数ではなくて、手の速さで進むのだと、見ていてよく分かった。
仕上がった鍋は、白磁ではなく、銅鍋亭の大鍋で卓に出された。取り分けは下町式。ただし最初の一杯だけは、ボリス氏が全員に、典礼の所作で注いで回った。
「祝いの膳の型でな。最初の一杯は、年長者が皆に注ぐ。……200年前は、そういう意味の型だった」
知らなかった。あの優雅な儀礼の祖先は、「年寄りが若いもんに飯をよそう」だったのだ。
卓を囲んだのは、総勢8人。王膳長に元弟子に親方、味見係に検味係にわたくし係、常連筆頭——それから匂いを嗅ぎつけて「あたしも交ぜな!」と乱入してきた八百屋のおかみ。
……これだわ。
ひと匙すすった瞬間、思った。鍋も無論すばらしい。でもこの鍋の味の何割かは、確実に、この卓の顔ぶれが出している。伝統と革新が同じ鍋をつつく、この食卓そのものが。
誰と食べるか。
120点のフルコースの設計図に、書き足すべき項目がまたひとつ。
「採点いたしますわ」
わたくしは匙を置いて、宣言した。卓が静まる。
「雉の祝いの鍋・改——93点。歴代1位、更新ですわ」
「93……!」とニナさん。
ボリス氏は、動じなかった。ただ自分の碗の底を、長いこと見つめていた。
「……92を、超えたか」
「ええ。超えましたわ。8点の減点のうち5点が消えて、その代わり、初めて組んだ3人の手の継ぎ目が4点ぶん、新しく見えましたの。差し引きで93点。——つまりこの鍋、組むほどにまだ伸びますわよ」
「型が、育ったということか」
「ええ。型は、生きていれば育ちますのよ」
ボリス氏は碗を置いて、初めて——本当に初めて、口元だけで笑った。岩が割れて、中から温かいものが覗いたみたいな笑い方だった。
「点付け。儂は点数というものが嫌いだ。今もだ。料理は数字ではない」
「存じておりますわ」
「……だが、貴様の点は、皿を殺さん。皿を生かす点だ。92が93になる道を、数字が照らした。それは、認める」
王都でいちばん頑固な舌からの、それが最大級の賛辞であることくらい、わたくしにも分かる。ありがたく頂戴した。
晩餐の途中、ボリス氏はリュカさんに、本題を切り出した。
「王膳所の型を、改める。200年ぶりの大改定だ。正式の手続きで、検討の座を作る。……ミルポワ。その座に、お前の席を用意した」
リュカさんの匙が、止まった。
「……俺は、追放された身です」
「追放した儂が、呼び戻す手続きをした。文句があるか」
「————いえ」
「言っておくが、戻れと言っとるのではない。お前の鍋は、もうここの鍋だ。それは奪わん。座に通うだけでいい。……型を直すには、型を破った者の目が要る。3年前に儂が捨てた目が、な」
リュカさんは深く、長く、頭を下げた。下げた顔は見えなかったけれど、隣のマルセルさんが何も言わずに、リュカさんの碗に鍋のお代わりを、どぼどぼと注いでいた。この店の流儀である。しょぼくれた——いえ、胸がいっぱいの奴には、飯を食わせる決まり。
ところで、この晩餐にはもうひと皿、記録すべき一品があった。
卓の隅に、ことりと置かれた小鉢。湯気の立つ、蕪の煮浸し。
「……アガット?」
「副菜です。鍋の合間に、お口を直していただくものかと」
いただく。出汁がきちんと蕪の芯まで届いて、そして塩が——遠慮していなかった。ちゃんと、決めた塩の味がした。
「65点。……踏み出しましたわね、ひとつまみ」
「はい。申し上げた通りに」
アガットは無表情のまま、ほんの少しだけ、顎を上げた。あれはこの侍女の、胸を張る時の角度である。58点から65点。7点ぶんの勇気。
『雉の祝いの鍋・改:93点(歴代1位更新)。ボリス×リュカ×マルセル、三世代の合作。
型は生きていれば育つ——本人の前で実証完了。王膳所、200年ぶりの型改定へ。リュカに席。
発見:この鍋の味の何割かは「顔ぶれ」が出していた。120点の設計図に追記——食卓の項。
アガットの蕪の煮浸し65点(+7)。塩、踏み出し済み。
ジョフロワさんは最後まで、あの隠居の正体に気づかなかった模様。下町、無敵』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。今夜は半分、食卓そのものにつけた点ですけれどね」
次話:「この胸騒ぎに点はつけられません」




