第26話「わたくしの席は下町に」
殿下の前に、シチューと白いスープと、炙りパンと酢キャベツが並んだ。
いつもの定食。フードの旦那が週2回、黙々と平らげていった、あの並びである。
「……答えを聞かせてくれと、言ったはずだが」
「ええ。ですから、まず召し上がってくださいまし。答えはその卓の上にありますの」
殿下は怪訝な顔をなさったけれど、空腹には勝てなかったらしい。匙を取って、いつもの順番で食べ始めた。シチューをひと口。パンを出汁に沈めて。酢キャベツでひと息——それからまた、シチューへ戻っていく。
その手が止まらなくなった頃合いを見て、わたくしは口を開いた。
「殿下。そのシチュー単品の点数は、68点ですの」
「……ろくじゅうはち? 嘘をつけ。もっとうまい」
「ええ、嘘ではありませんわ。単品では68点。でも今、殿下が召し上がっているその食事は——定食としては、74点ですのよ」
殿下の匙が、止まった。
「同じシチューが、ですか、とお顔に書いてありますわね。同じシチューですわ。でもパンが脂を受け止めて、酢キャベツが舌を起こして、次のひと口をまた新しくする。皿と皿が手を組むと、一皿では届かない場所に届きますの。——食事の点数は、足し算ではなく掛け算ですのよ」
「……それが、答えと何の関係がある」
「これが答えのすべてですわ」
わたくしは、ノートを開いて、卓の上に置いた。1ページ目。テリーヌの87点。それから、ぱらぱらと頁を繰る。23点のシチュー。62点の定食。78点の白いスープ。92点の祝いの鍋。88点の御前の皿。
「殿下。わたくし、100点の皿を探しておりますの。生涯かけて。たぶん、一生見つかりませんわ。それでいいんですの。——でもね、もうひとつ、夢がありますのよ」
顔を上げて、申し上げた。
「120点のフルコースですわ」
「……ひゃく、にじゅう?」
「一皿は、100点を超えられません。でも食事は、超えられますの。前菜からスープ、主菜から甘味まで——皿の並びと、温度の流れと、食卓を囲む顔ぶれまで全部設計した食事なら。一皿の限界を、食卓が超える。それを作るのが、わたくしの夢ですわ」
殿下は、ノートと、卓の上の定食を、交互に見た。
「シチューとパンでわたくしは、それが夢物語でないことをもう知っていますの。62点は74点になりましたわ。次は80点、その次は90点。いつか——120点」
「…………」
「宮廷専属のお話、身に余る光栄ですわ。本気でそう思っておりますのよ。でも専属というのは、王宮の皿『だけ』を見る役ですわね。わたくしの夢には王宮の皿も下町の鍋も、市場の屑野菜も屋台の串も、全部要りますの。素材は王都じゅうに散らばっていて、どこで見つかるか分かりませんもの。——宮廷の籠は、この夢には少しだけ、狭すぎますわ」
長い、沈黙だった。
殿下は黙って、残りの定食を食べた。最後のひと匙まで、ゆっくりと。それは時間稼ぎの食べ方ではなくて、何かを噛んで飲み込むための食べ方に見えた。
器が空になって、殿下は言った。
「……断られると、思っていた」
「あら」
「お前は断罪の夜も、王宮の作法より自分の舌を取った女だ。籠に入る玉ではないことくらい、見当はついていた。……それでも、誘わずにはいられなかった。あれを口にしてしまったからな」
殿下は、空の器を見下ろした。
「俺は王子だ。生まれてこの方、まずいものを食わされたことは一度もない。完璧な皿だけが、完璧な作法で出てくる。……だがこの店の飯を食って、初めて分かった。俺は今まで、うまいものを食ったことが、なかったらしい」
……まあ。
この方、舌だけではなくて、言葉も悪くないんですのよね。点はつけませんけれど。
「だから、攫おうと思った。王宮へ。あの味ごと、お前の舌ごと。……だが、それは違うのだな。籠に入れたら、この味は死ぬ。この味は、この町ごと生きている」
「ご明察ですわ」
「では、どうする。このまま、何もなしか」
「いいえ。対案がございますの」
わたくしは、用意しておいた紙を差し出した。一晩かけて書いた、わたくしの就職活動である。
「『王都味見役』——新しいお役目を、作ってくださいまし」
「王都、味見役」
「専属ではなく、御用ですわ。王宮の食卓も下町の市もギルドの流通も、王都の食のすべてを自由に見て回り、求められれば助言する役。俸給は要りませんの。代わりに通行の自由と、どの厨房の扉も叩ける小さな許状をひとつ。拠点はこの銅鍋亭。——王宮の改革でしたら、ボリス様とリュカさんという最高の組み合わせが、もう動き始めていましてよ。わたくしは外から、点をつけに参りますわ」
殿下は紙を受け取って二度読み、それから、ふっと笑った。気取りの剥がれた、フードの旦那の顔で。
「……役名まで考えてあるとは。お前、断る気満々だったな」
「あら。交渉は満腹でなさい、と申しますのよ」
数日後、王宮から小さな許状が届いた。
『クロエ・ド・サヴァランを王都味見役に任ずる。王都の食に資する限りにおいて、その舌の自由を保証する』
末尾の署名は国王陛下。でも文面の癖は、どう見ても殿下の手だった。「舌の自由を保証する」なんて条文、典礼一筋の式部官が書くはずがない。
店の壁に、許状は飾らないことにした。代わりにノートの表紙の裏に、小さく畳んで挟んである。わたくしの舌の、お守りである。
「クロエ様、これからも銅鍋亭にいてくださるんですの!?」
「ええ、ニナさん。家賃代わりの採点は、まだ80点に届いていませんもの」
「聞いたか、おい」とマルセルさんが厨房で笑った。「うちの2階は当分、ふさがったままだとよ」
リュカさんは、その晩ずっと無言で仕込みをしていた。でも翌朝の挑戦の一皿は、ここ最近でいちばん出来が良くて、点を聞く時の顔は、ここ最近でいちばん晴れていた。87点。テリーヌと、並んだ。
『宮廷専属:辞退。対案「王都味見役」:成立(舌の自由、保証つき)。
夢、初めて口に出した。120点のフルコース。言ってしまった以上、もう後には引けませんわね。
殿下の言葉「うまいものを食ったことがなかったらしい」——あの舌の育ちの謎、いつか解きたい。
リュカ:87点。3年かけて、自分のテリーヌに追いついた』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。わたくしの席から見える皿、全部にね。——席はここに決めましたの。王都でいちばん、いい匂いのする席ですわ」
次話:「伝統と革新の晩餐会」




