第25話「宮廷専属のお誘い」
御前試食会から3日。銅鍋亭は、開店前から行列が橋を渡ってくる店になっていた。
「白いスープ、本日の分は売り切れですわー!」
「もう!? まだ昼前だぞ!」
「明日の分のご予約は承りますわ。ただし御一人様一杯まで」
貴族街からのお客様まで交ざり始めて、ニナさんの接客は引っ張りだこ、リュカさんとマルセルさんの鍋は回りっぱなし。祝勝気分も何も、忙しすぎて祝う暇がない。これはこれで贅沢な悲鳴である。
橋向こうの噂も、行列と一緒に流れてくる。銀杯亭は建国祭の御用指定を外されたらしい。クレマン書記官は北の関所付きへ転出とか。王膳所の裁きは派手な断罪をしない——静かで、長いのだ。守るものの守り方を間違えると、ああなる。ノートの隅の教訓欄に、書き留めておいた。
その昼下がりに、馬車が来た。
王家の紋章付き。降りてきたのは、見覚えのない壮年の侍従と、随員が2名。店の前の行列が、ざわりと割れた。
「クロエ・ド・サヴァラン殿。王命により、お伝えする儀がございます」
店の中で受け取った書状は、上等な羊皮紙に、これでもかという数の封蝋が並んでいた。
読み上げられた中身を、要約するとこうなる。
一、御前試食会における銅鍋亭の功績を、王家として認める。
一、クロエ・ド・サヴァランを「宮廷専属味見役」として王膳所に迎えたい。
一、就任の暁には、王宮内に居室と俸給を与え、サヴァラン公爵家の名誉に関する沙汰も、しかるべく取り計らう。
「……宮廷、専属」
「左様。王宮の食卓すべてを検分し、助言する役。王膳長ボリス・ブレゼ様も、貴殿の舌であれば、と」
あのボリス様が。それは——正直、胸にくるものがある。秤の針が、そこまで動いたのだ。
「ご返答は、3日のうちに。……ああ、それと」
侍従は声を落として、付け足した。
「これは第一王子殿下の、たってのご発案にございます」
馬車が走り去った後の店は、お祭りと、お通夜が同時に来たような空気になった。
「宮廷専属! すごいですわクロエ様、出世ですわ!」とニナさん。
「身分も戻るんだろ。公爵家の沙汰も、って言ってたぞ」とガストンさん。今日も炭を届けに来ていた野次馬である。
「……断る理由が、ねえな」
マルセルさんが、ぼそりと言った。鍋をかき混ぜる手を止めずに、こちらを見ずに。
「考えてもみろ。王宮の飯付き、屋根付き、名誉付きだ。断罪された令嬢の名前も拭える。親父さんも喜ぶだろうよ。……うちみてえな場末の2階に、いつまでも居る話じゃねえ」
「親方!?」とニナさんが悲鳴を上げた。
「事実を言ったまでだ」
事実。ええ、事実ですわね。
条件だけ並べれば、満点のお誘いだ。前世ふうに言えば、破格の好条件での本社栄転。誰が聞いても「おめでとう」の案件である。
なのに、さっきから胸の奥で、何かがことことと音を立てている。煮えてはいけないものが煮え始める前の、あの音が。
夜、閉店後。
リュカさんが、洗い物の手を止めて、出し抜けに言った。
「……行くべきだと、思う」
店の空気が、固まった。
「王宮の食は、変わるべきなんだ。俺は中にいたから分かる。あそこには、王太后様みたいに、皿を残し続けてる人が今もいる。型は時代と離れ続けてる。それを直せる舌が、あんただ。師匠が頭を下げたのが、何よりの証拠だろ」
「リュカさん……」
「あんたが行けば、王宮の何百人の食卓が変わる。下町は——」
そこで、声が少しだけ揺れた。
「……下町は、もう走り出してる。点数札も、食べ比べの市も、あんたがいなくても回る仕組みになってる。あんたが、そう作ったんだ。だから」
だから、行ける。
理屈は、完璧だった。完璧な説得だった。
——完璧な説得と、誘惑は違う。
いつかわたくしが、この人に申し上げた言葉だ。その完璧な説得の間じゅう、リュカさんの手が、濡れ布巾を絞り切ったまま一度も緩まなかったことを、わたくしのノートは記録している。
「アガットは、どう思いますの」
水を向けると、わたくしの侍女は皿を拭く手を止めずに、平坦に答えた。
「お嬢様の行かれる所が、わたくしの行く所です。王宮でも、下町でも、地の果てでも」
「……参考にならなくてよ」
「参考にしていただくつもりが、ございませんので」
この侍女は、ずるい。いちばん強い答えを、いちばん何でもない顔で言う。
寝る前に、ノートを開いた。
迷った時の、わたくしの作法。論点を全部書き出して、点数をつける。宮廷専属の利:身分・俸給・家の名誉・王宮の食の改革・何百人の食卓。下町残留の利:自由・銅鍋亭・市・町の皆さん。
書き出して、採点して——手が、止まった。
点が、つかないのだ。
比べる物差しが、違う。これは「どちらが得か」の問題ではない。「わたくしの舌は、何のためにあるのか」の問題だ。そしてその答えは、利得の表からは出てこない。
ページの端に、いつかの言葉が書いてある。白いスープを取り戻した、あの頃の走り書き。
『レシピは紙に書かれていなくても、こんなにたくさんの舌が覚えていた。愛された皿は、消えない』
……ふむ。
わたくしの舌は、何を覚えているのかしら。
考えながら眠った夜の夢に、出てきたのは王宮の大広間ではなくて、定食の皿だった。シチューと、炙りパンと、酢キャベツ。62点の、あの並び。夢の中でわたくしは、なぜだかそれを眺めて、ひどく機嫌が良かった。
翌日の夜——返答期限の前夜。
閉店間際の銅鍋亭に、フードの男の人が、入ってきた。
週2回の常連だった人。試食会の前から、ぱたりと来なくなっていた人。今夜はフードを、入り口で自分から下ろした。
店に残っていた全員が、固まった。ニナさんの「デンカって新しいお菓子……あっ、あーっ!?」という叫びが、夜の店に響き渡った。
「……騒がせるつもりはない。客として来た」
ジルベール・フォン・エクレール第一王子殿下は、いつもの席——フードの旦那の定位置に座って、いつものように注文なさった。
「シチューと、白いスープを。……それと」
殿下は、わたくしをまっすぐに見た。あの夜会の指差しとも、お忍びの泳いだ目とも違う、ただの率直な目だった。
「食べ終わるまでに、聞かせてくれ。専属の話——お前は明日、何と答える」
『宮廷専属味見役の打診:王命・殿下発案。利得表、採点不能(物差し違い)。
リュカの完璧な説得と、絞られたままの布巾。アガットの「参考にしていただくつもりがない」。
夢に出たのは大広間ではなく、62点の定食。……わたくしの舌は、何を覚えている?
明日の返答を、殿下が直々に聞きに来た。シチューが冷める前に、答えを煮詰めますわ』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。でもね、アガット。人生でいちばん大事な問いには——どうやら、点がつかないらしいの」
次話:「わたくしの席は下町に」




