第24話「勝負の行方」
最初に蓋が開いたのは、国王陛下の器だった。
白い湯気が、ふわりと立つ。蜂蜜と柑橘の、祝いの朝の香り。壇上の空気が、その一瞬だけ、儀式から食卓に変わったのが分かった。
陛下が、ひと匙。
止まる。器を見る。もうひと匙。
……よし。あの「器を見る」は、本物の合図だ。人は本当に美味しいものに出会うと、まず器に訊くのだ。おまえ、何者だ、と。
王妃陛下の匙も、止まらなかった。ジルベール殿下に至っては、もはやお忍びの食べ方——器の底まで一直線——を御前で披露なさっていて、隣の侍従が二度見していた。殿下、それは下町の作法でしてよ。
でも、わたくしが見ているのは、そこではない。
上座の端。
老大臣の、手元。
お付きの者が蓋を取り、老大臣は例によって、義理のひと匙を掬った。祝いの席で皿を残す者の、あの諦めた手つきで。
ひと匙。
——止まった。
老大臣は、自分の匙を見て、それから器を見た。何かを確かめるように、もうひと匙。今度はゆっくり、味の奥まで降りていくような間があって——三匙目から、手の速さが変わった。
義理の手ではなくなった。
食事の手になった。
「……クロエ様、クロエ様」とニナさんが袖を掴む。「あの方、止まりませんわ」
「ええ」
「止まりませんわ……!」
老大臣の器は、空になった。
最後のひと匙まで。パンのとろみの、最後のひと掬いまで。空の器を前に、老大臣はしばらく動かず、それから隣席の審査官に何かを言った。遠目にも分かった。「これを作ったのは、どこの店か」と訊いたのだ。
……届いた。
わたくしは、息を吐いた。ペンを持つ手が、少しだけ震えていた。点数では測れないものが、確かにこの世にはある。たった今、空になったあの器みたいに。
だが、勝負はまだ終わっていなかった。
審査である。
審査団12人の試食が始まり——そこで、妙なことが起きた。
「銀杯亭の二の皿、評は『芳醇にして濃厚』……銅鍋亭の二の皿、評は『淡白』『印象が薄い』……」
ニナさんの顔が、険しくなる。7人。例の7人の評だけが、揃って同じ言葉を使っている。淡白。薄い。——鈍った舌は、繊細を「薄い」としか言えないのだ。
記録は、ある。でも、それを出すかどうかの判断の前に。
動いた人がいた。
壇の中央で範例の隣に座していた、王膳長ボリス・ブレゼ。
彼は審査の途中から、眉ひとつ動かさずに、何かを数えていた。やがて自分の手元の碗——銅鍋亭の皿——をもうひと匙含み、隣の審査官の評を聞き、それから静かに立ち上がった。
「審査を、中断する」
大広間が、凍った。
「王膳長!? 審査の最中ですぞ」と式部官。
「だからだ」
ボリス氏は、岩の声で言った。
「この皿の出汁の層が『淡白』に感じられる舌が、12のうち7もある。ありえん。儂の舌と、7人の舌が、ここまで割れることは——過去30年の御前で、一度もなかった」
会場がどよめく。オーバン氏の優雅な顔から、すっと色が引いていくのが見えた。
「審査官は全員、白湯で舌を清め、半刻置いて再試食とする。茶器はすべて下げよ。……新しい茶は、儂が手配する」
茶器、という言葉を、ボリス氏ははっきりと言った。知っていたのか、勘づいたのか。どちらでもいい。あの人は型の番人で——審査もまた、守るべき型なのだ。混ぜ物をされた審査を、あの人の矜持が許すはずがなかった。
半刻後の再試食で、評は一変した。
「……淡白では、ない。これは——層だ。出汁が、順番に来る」
「飲み込んだ後に、香りが戻る。なんだこれは。祝いの……朝の?」
「待て、この塩気で、なぜこんなに満ちる」
7人の評が、書き直されていく。オーバン氏は彫像のように動かず、クレマン書記官は監督官の腕章を握りしめたまま、壁際で蒼白になっていた。お茶の手配が誰の差配だったか、これから王膳所で静かに、長く、調べられるのだろう。
そして、結果発表。
「二の皿、自由部門。第1位——」
式部官が、息を吸った。
「銅鍋亭。『祝いの白いスープ』」
一拍の静寂のあと、大広間のどこかから拍手が起きた。壇上からだ。ジルベール殿下が、立ち上がって叩いている。慌てて貴族たちが続き、拍手は会場全体に広がっていく。その真ん中でニナさんが泣きながらマルセルさんに抱きつき、マルセルさんは直立不動のまま顔を真っ赤にしていた。
拍手の渦の端で、銀杯亭のオーバン氏が席を立った。退場の途中、わたくしの卓の脇で一瞬だけ足が止まって、聞こえるか聞こえないかの声が落ちてくる。
「……王膳所の型が変われば、うちは200年磨いた看板の型を失う側だ。守るものがある者は、何でもする。——覚えておくことだ、点付け殿」
返す言葉を選ぶより先に、銀の杯の紋は人波に消えた。守るものの守り方を、間違えただけの人。敵ながら、あの台詞だけは——料理人の顔をしていた。
講評の段になって、ボリス・ブレゼが壇を降りた。
まっすぐに、うちの調理台へ歩いてくる。会場が見守る中、王膳長は卓の上の鍋——空に近くなった白い鍋を見下ろして、低く言った。
「型の項目、126。検めたが、ひとつも破られていない」
「恐れ入りますわ」
「だが、型のままでもない。蓋の意味も盛りの意味も祝いの意味も——全部、生きたまま動いておる。こういう皿を、儂は……」
言葉を探すように、間が空いた。
「……200年前の連中は、こういう皿を『型』と呼んだのだろうな」
それから王膳長は、リュカさんの前に立った。
師弟は、3年ぶりに正面から向き合った。リュカさんの背筋は、王宮の躾けのまま伸びている。
「ミルポワ」
「……はい」
「この出汁の引き方に塩の引き際、香りでの補い。3年前の夜の味が、この鍋の底におった」
リュカさんの目が、見開かれた。
「あの夜、王太后様の皿が、初めて空で戻った。儂は厨房で検めて、配合が型と違うことに気づき、規則の通りに貴様を裁いた。……裁いた後も、ずっと考えておった。3年、ずっとだ。あの皿はなぜ、空で戻ったのか」
ボリス氏の声は、岩のままだった。岩のまま、ほんのわずかに、軋んだ。
「今日、分かった。……愚か者が。なぜ、黙って背負った」
「————師匠」
「儂はまだ、貴様を許しておらん。型を黙って破った罪は、理由が貴いほど、重い。黙ることで儂に、知らぬまま人を裁かせたのだからな」
それは突き放す言葉のはずなのに、リュカさんは、泣きそうな顔で頷いた。3年間、誰にも裁き直してもらえなかった罪を、初めて正しい重さで量り直してもらえた顔だった。
「……はい」
「近く、銅鍋亭とやらに行く。話は、そこでだ」
それだけ言って、王膳長は背を向けた。去り際、その視線が一瞬だけわたくしを掠めて——気のせいでなければ、目礼だ。秤の目の、針が止まった位置は、もう敵の位置ではなかった。
帰りの橋の上は、夕焼けだった。
「クロエ様! うちの皿、結局何点でしたの!?」
「あら、そういえば申し上げていませんでしたわね」
わたくしは橋の真ん中で立ち止まって、ノートを開いた。チーム全員が覗き込む。
「祝いの白いスープ・御前本番——88点」
「はちじゅうはち……!」とリュカさんが呻いた。「テリーヌを、超えた」
「ええ。あなたの歴代最高を、あなたたちの皿が超えましたのよ。仕上がり86点に、本番の火と、あの会場で湯気が立った瞬間の2点。……ふふ、でもまだ、100点には12点も遠いんですのよね。先は長いわ」
「鬼か」「鬼ですわ」「鬼だな」
外野がうるさい。誉めておりますのよ、これでも。
『御前試食会・二の皿:第1位、銅鍋亭(88点・自己最高更新)。老大臣、完食。器に訊いていた。
審査の細工:ボリス・ブレゼ自身が見抜き、白湯と再試食を断行。記録のお守り、使わずに済んだ。いちばん品の良い決着。
ボリスとリュカ:3年越しの量り直し、開始。「近く、銅鍋亭に行く」——白い鍋、磨いておかなくては。
88点。100点まで12点。……この12点の遠さが、なぜだか今夜は、嬉しいの』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。今日のは、橋の上でつける点ですわ。——ほら、ごらんなさいな。下町の灯りが、お祝いみたいでしてよ」
次話:「宮廷専属のお誘い」




