第21話「塩対応侍女の隠し味」
本選を4日後に控えた銅鍋亭は、差し入れで埋もれかけていた。
「規格外の上玉、箱ごと持ってきたよ! 御前の連中の度肝、抜いておやり!」とロザリーさん。
「新作の白パンだ。験担ぎに、勝ち栗を練り込んだ」とベルナールさん。
「炭は俺が見繕う! 火力が要るんだろ、本選ってのは!」とガストンさん。
ジョフロワさんの孫は「ひっしょう」と書いた旗を作ってきて、仕立て屋のご夫婦は本選用の前掛けを5枚も縫ってきた。極めつけにパイ屋のロランさんが「験担ぎです」と勝利のパイ(中身は鶏)を届けてきて、卓はもう完全に祭りの様相である。
「採点してくださいまし、クロエ様!」とニナさん。
「ガストンさんの串、新ダレで75点。ロランさんのパイ、71点で自己最高を更新——あなた、本当に伸び盛りね。ベルナールさんの勝ち栗パン……ふふ、78点。栗の渋皮の処理が丁寧ですわ」
「よっしゃあ!」
ありがたい話だ。本当に、ありがたい話なのだけれど。
わたくしはその晩、自分の異変に気づいていた。
夕食が、入らないのである。
連日の試作で、味見の回数は1日40を超える。御前仕様の白いスープは79点から80点、81点へ——舌は研ぎ続け、頭は採点し続ける。そして夜になるとお腹は空いているのに、食べるという気力だけが、すとんと抜け落ちている。
味見係の職業病だ。前世でもあった。食が仕事になりすぎると、食事から「ただ食べる」が消える。口に入れるものすべてが検体になって、評価の終わらない舌は、休み方を忘れる。
「お嬢様。お夕食、また半分残っています」
「ええ……ごめんなさい、アガット。お腹は空いているのよ。ただ、その」
「分かっています」
アガットは盆を下げながら、それだけ言った。
翌日も差し入れの山と試作は続いて、店の皆は本選の配置の話になった。
「料理はリュカと親方ですわね! わたくしは検味補佐! クロエ様が献立と総指揮で——あら?」
ニナさんが、無邪気に首を傾げた。
「アガットさんは、本選では何のお係ですの?」
悪気は、欠片もなかったと思う。
でもその瞬間、洗い場のアガットの手が、ほんの一拍止まったのを、わたくしは見てしまった。すぐに何事もなく動き出した手を。「兵站です」と平坦に答えた声を。その夜、繕い物の籠が空っぽで、彼女が部屋にいなかったことを。
階下から、ことり、と音がした。
深夜の厨房に、灯りがひとつ。
覗くつもりはなかった。でも階段の途中から見えてしまったのだ。アガットが、竈の前に立っているのを。
包丁の音は、相変わらず定規のように正確だった。野菜の刻みも、湯の加減も、手順は完璧。なのに——味付けの段になると、ぴたりと止まる。塩の壺を持ち上げて、戻す。匙で掬って、また戻す。そのまま長いこと、鍋の前で動かない。
ああ。
味は、お嬢様の領分ですから——いつかの、あの一拍の間。
彼女はずっと、ここで止まっていたのだ。刻むまでは行ける。煮るまでは行ける。でも「これでいい」と決める最後のひと匙が、踏み出せない。決めた味を、わたくしに出すのが——点をつけられるのが、怖くて。
わたくしは、音を立てずに部屋へ戻った。
見てしまったと告げるのは、違う。あの人の鍋の蓋は、あの人が持ち上げるべきだから。
その機会は、翌々日の夜に来た。本選を2日後に控えた夜である。
試作は最終形の一歩手前、83点で止まっていた。あと2点。「祝い」の置き場所がまだ見つからない。わたくしは夕食もそこそこに、ノートとにらめっこを続けて——気づいたら、卓に突っ伏していたらしい。
「お嬢様」
肩を揺すられて目を覚ますと、店はもう暗くて、目の前に、湯気の立つ器がひとつ置かれていた。
粥だった。
卵の落とされた、白い粥。刻んだ青菜が少し。飾りも工夫も何ひとつ足していない一品。
顔を上げると、アガットが立っていた。いつもの無表情。でも前掛けの紐が、いつもより固く結ばれている。
「……あなたが、作ったの?」
「はい」
短い返事のあと、アガットは一度だけ呼吸をして、続けた。
「お嬢様はこの数日、味見はしても、食事をしていません。本選も目前です。何か、評価しなくていいものを、お腹に入れていただきたくて」
「評価しなくて、いいもの」
「はい。ですが」
アガットは、まっすぐにわたくしを見た。
「採点して、ください」
……あら。
「評価しなくていいものを作ったのに、採点しろとおっしゃるの?」
「はい。矛盾しています。承知の上です」
彼女の手が、前掛けの端を、きゅ、と握った。3年仕えてくれた侍女の、初めて見る手だった。
「わたくしは、お嬢様の点数に憧れて、ずっと隣で見てきました。あの点数は、嘘をつかないから。誰のことも、見捨てないから。……ですから、わたくしの初めての皿にも、嘘のない点を、いただきたいのです」
だから、わたくしは匙を取った。
ひと口。
粥は、柔らかかった。米の炊き加減は完璧——この人の正確さなら当然だ。卵の火入れも申し分ない。青菜の刻みは絹のよう。そして塩は。
塩は、ほんの少し、足りなかった。
最後のひと匙を、やっぱり踏み出しきれなかった、遠慮の味がした。
「——採点いたしますわ」
わたくしは匙を置いて、いつもの声で言った。物差しは、曲げない。この人が憧れてくれた物差しなのだから、今夜こそ、曲げてはいけない。
「58点」
アガットの肩が、ぴくりと動いた。
「内訳を申し上げますわ。炊き加減と火入れと刻み、ここは文句なしですの。あなたの正確さは厨房で武器になりますわ。減点は塩。あとひとつまみ、勇気が足りませんの。『これでいい』と決める最後のひと匙——あなた、そこで毎回止まるでしょう」
「…………見て、いらしたのですか」
「ええ、少しだけ。盗み見てごめんなさいね。……でもね、アガット。58点は、悪い点ではありませんのよ。伸びしろが42点もある、出発点の点数ですわ。それから——」
わたくしは、空になりかけた器を見せた。
「採点と関係のない事実を、ひとつご報告いたしますわ。わたくし、今夜、この数日で初めて——味見ではなく、ご飯を食べましたの」
アガットは、瞬きをした。
一度。二度。
それから——彼女の頬を、つ、と何かが伝った。本人がいちばん驚いた顔をしている。無表情のまま泣く人を、わたくしは初めて見た。
「……失礼、しました。これは、その」
「あら、減点対象ではありませんわよ」
「……っ、点の話では、ありません……」
声が、初めて平坦ではなくなった。アガットは前掛けの端で乱暴に目元を拭う。それでも止まらないものを止めようとして、失敗して、結局うつむいたまま——ぽつりぽつりと言った。
「リュカ様には腕があります。ニナ様には舌があります。親方には鍋があります。わたくしには……わたくしは、お嬢様のお側にいる以外、何も。役目がだんだん、なくなっていく気がして。怖くて。それで、せめて料理を覚えれば、と」
「アガット」
「はい」
「あなたの係は、最初から決まっていますわ。募集もしていませんし、後任も永遠に取りませんの」
わたくしは、ノートを開いて、その場で書いて、見せた。
『本選・配置表(最終版)
料理:リュカ、マルセル
検味補佐:ニナ
献立・総指揮:クロエ
兵站総監・わたくし係:アガット・セル(専任・終身)』
「……わたくし係、とは」
「わたくしを生かして、立たせて、戦わせる係ですわ。今夜あなたがしたことの、正式名称ですのよ。——この粥がなければ、本選のわたくしは半分の出来でしてよ。それは点数にすれば、何点分の働きかしらね?」
アガットは配置表を長いこと見つめて、それから、震える息をひとつ吐いて、いつもの顔に戻った。戻りきれていない、目の赤いいつもの顔に。
「……かしこまりました。終身、お受けします」
「ええ。よろしくてよ」
「それと、お嬢様」
「なにかしら」
「塩のひとつまみは——次は、踏み出します」
『アガットの卵粥:58点(炊き・火入れ・刻みは満点級、塩に遠慮)。
ただし特記事項:本品により味見係、数日ぶりに「食事」を回復。この働きは点数にできない。しない。
わたくし係:専任終身、契約成立。
……ところで「評価しなくていいもの」で食欲が戻った理由が、明日の85の壁の答えな気がする。祝いの置き場所。評価の外側。——寝る前に、もう少しだけ考えますわ』
「お嬢様。また点をつけていますね」
目の赤い侍女が、いつもの台詞を言った。
「ええ。今夜のは、3年待った点数よ」
次話:「減塩レシピの真相」




