第20話「ニナの舌の秘密」
翌朝の市場への道すがら、ニナさんは話してくれた。
「ブリオッシュの家は、代々、王家の毒見役でしたの」
毒見役。御前に出るすべての皿を、王より先に口にする家。
「お役目は、おばあさまの代まで続きましたわ。検食の儀が簡略化されて、お役御免になって——それから家は、商いに手を出しては失敗して、今の有様ですの。でも、訓練だけは残りましたのよ。ブリオッシュの女は、5歳になったら食卓で『当てる遊び』を始めますの」
「食べる前に、匂いで読む」
「ええ。遊びの顔をした、毒見の稽古ですわ」
ニナさんは、歩きながら自分の鼻先にちょんと触れた。いつもの仕草。あれは癖ではなくて、型だったのだ。この子の体に入っている、家の型。
「材料を当てるのも、作り手の数を当てるのも、全部その続きですの。毒は、味の並びを乱しますから。正しい味の並びを覚えていれば、並びの乱れで毒が分かる。……わたくしの舌は、美味しいもののためではなくて、そういうもののために作られた舌ですのよ」
最後のほうは、少しだけ声が小さくなった。
「それで——あの匂いですけれど」
ニナさんは、足を止めた。
「おばあさまの薬棚にあったのは、『甘痺の蜜』という薬種ですわ。舌を護る薬。強い毒を検めた後、舌が焼け付かないように、ほんのひと舐めして膜を張りますの。甘い匂いで、痺れるような後香。——使い方を変えれば」
「舌の感度そのものを、数刻、鈍らせられる」
「ええ。微量なら本人も気づきませんわ。お茶にでも垂らせば、ただ『今日は何だか味がぼんやりするな』で終わりますの」
毒ではない。害もない。ただ、舌が鈍る。
審査の場でそれが起きれば、何が死ぬか。——繊細な味だ。出汁の層、火入れの精度、後味の余韻。舌で測るものが全部死んで、残るのは目で見える型と、儀礼の点数だけ。
型の強い者が、勝つ。
「……ようやく、絵が見えてきましたわね」
午前中いっぱい、わたくしたちは香料屋を3軒回った。ニナさんの鼻は3軒目で当たりを引いた。棚の奥の小瓶——甘痺の蜜。店主いわく、薬種としては出回りの少ない品。
「最近、お求めの方は?」
「珍しいんだがね、ここふた月で2回も出たよ。橋向こうの、料理屋の使いってえ話だ。香料だと言って買ってったが」
「その方の前掛けに、紋はありまして?」
「ああ——銀の、杯の紋だったかね」
ニナさんと、顔を見合わせた。
銀杯亭。
「クロエ様、これ、動かぬ証拠ですわ! 御前で突きつけて——」
「いいえ、まだですわ」
逸る袖を、そっと引き留める。
「帳簿の上では『香料を買った料理屋』ですのよ。甘痺の蜜は毒ではない。審査のお茶から検出できたとしても、『香り付けです』と言われたら、それまで。下手に騒げば『負け犬の言いがかり』にされて、下町ごと評判を失いますわ」
「で、でも、それじゃあ」
「ですから、二段構えですの」
わたくしは指を2本、立てた。
「一の段。本選の日、ニナさんの鼻で審査団の碗とお茶を検めて、気づいたことを全部、時刻と一緒にわたくしのノートに記録しますわ。証拠は告発のためではなく、お守りのために持つもの。——いざという時、こちらには記録がある。それだけで、向こうの動きは鈍りますの」
「二の段は?」
「鈍った舌にも届く皿を、作ることですわ」
ニナさんが、目を丸くした。
「相手の細工を、皿で踏み越えますのよ。舌の感度が落ちても消えないもの——香りの立ち上がりに温度、食感の対比、喉を通った後の戻り香。白いスープの御前仕様は、最初からそこへ設計しますの。細工があってもなくても、届く皿に」
「……それで勝ったら、細工は全部、無駄働きですわね」
「ええ。いちばん品の良い意趣返しですわ」
帰り道、ニナさんはしばらく黙って歩いていた。それから、ぽつりと言った。
「……おばあさまが、よく言っていましたの。『おまえの舌は、人を守るためにある』って。でもわたくし、ずっと、ぴんと来ませんでしたのよ。毒見のお役目なんて、もうないのに。守る相手なんて、どこにもいないのに。……この舌は、行き場のない遺品みたいなものだと思っていましたわ」
遺品。17歳の言葉ではない。没落の中で覚えた言葉だろう。
「それがね、クロエ様。昨日から、変ですの」
ニナさんは、わたくしを見上げて、ふにゃりと笑った。
「碗の匂いに気づいたとき、胸がどきどきしましたの。怖いのではなくて……役に立つ、と思って。おばあさまの稽古が、銅鍋亭を守るかもしれないと思って。それでわたくし、嬉しくて」
「ニナさん」
「はいっ」
「あなたのその舌、本選の検味補佐に、正式に任命いたしますわ。お給金、その日は倍。——あなたの家の型は、行き場を、自分で見つけましたのよ」
ニナさんは目をまんまるにして、それから返事の代わりに、わたくしの腕にぎゅうっと抱きついた。往来で。淑女教育はどこへ。
……ちなみにその夜。
夕食の席で、アガットのカップの音が、こと、と鳴った。本日2回目である。観測記録、更新中。繕い物の籠には、ニナさんの冬用の肩掛けが、頼まれてもいないのに編みかけで入っている。手厳しいのか優しいのか、本当にこの侍女は。
試作のほうも、一歩進んだ。
御前仕様・試作2号。雉をやめて、出汁は店と同じ鶏がらのまま、香りの立ち上がりと温度の設計だけを変えた一杯。
「81点。方向、合いましたわ。格上げではなく、届け方。残りはこの皿の『祝い』をどこに置くか——それが見つかれば、85の壁を越えますわよ」
『甘痺の蜜:毒見の家の薬種。舌の感度を数刻鈍らせる。購入者の前掛けは銀の杯の紋(ふた月で2回)。
方針:告発せず、二段構え。記録のお守り+鈍った舌にも届く設計。
ニナ・ブリオッシュ:検味補佐に正式任命。行き場のなかった家の型、行き場確保。
試作2号81点。「祝い」の置き場所、捜索中。
アガットのカップ:こと(本日2回目)。編みかけの肩掛け、確認。……この件、そろそろ満期かもしれない』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。今日は、人の舌に一番いい点をつけましたわ」
次話:「塩対応侍女の隠し味」




