第18話「初戦敗北」
銅鍋亭の祝い鍋は、湯気から違った。
豚の肩肉と冬根菜を、白いスープの技法で仕立てた大鍋。とろみの底には炙った黒パン。仕上げに、ロザリーさんの規格外人参を飾り切りもせず、ごろりと豪快に。器は——うちの看板、磨き上げた銅鍋そのもの。
「祝いってのはな」とマルセルさんは言った。「皿の上の話じゃねえ。鍋を囲んだ人数の話だ」
だから銅鍋亭の祝い鍋は、大皿から取り分ける形にした。婚礼の宴で、隣の席と「お先にどうぞ」をやり合う、あの形。下町の祝いの、歴史ごと。
調理中、マルセルさんとリュカさんの手が、初めて完全に噛み合った。出汁はマルセルさん、火入れと仕上げはリュカさん。23点から這い上がった鍋と、王宮で磨かれた手が、ひとつの湯気の中で混ざっていく。
味見をして、わたくしは頷いた。
「83点。——今のうちの、正真正銘の実力ですわ」
「上等だ」
献上の刻。
王族の卓に、5つの鍋が並んだ。
銀杯亭の鍋は、見事だった。銀の鍋に金箔の浮く澄まし仕立て。雉と冬野菜、典礼の型を寸分違わず踏んだ小ぶりの上品な一椀。ボリス氏の範例の、正統の写し。
うちの鍋は、その隣で明らかに浮いていた。銅の鍋。ごろりとした人参。取り分け用の大きな木杓子。
でも——王族の反応は、悪くなかったのだ。
国王陛下は二度お代わりをなさりかけて、侍従に窘められていた。王妃陛下は人参の甘さに目を見開かれる。そしてジルベール殿下は、よく知った手つきで器の底まで綺麗に召し上がって、はっとした顔で匙を置いた。殿下、食べ慣れた味への信頼が、所作に出ておりましてよ。
手応えは、あった。
あったのに。
「一の皿、伝統部門。審査結果を発表する」
式部官の声が、大広間に響いた。
「第1位——銀杯亭」
拍手。オーバン氏の優雅な一礼。
「第2位、翡翠の間。第3位、香草館。第4位——銅鍋亭」
4位。
5組中の、4位。
会場のあちこちから、忍び笑いが漏れた。「ほら見ろ」「下町の鍋など、御前に出すものか」「点付けとやらも、その程度」。
ニナさんの顔が、真っ赤になった。
「っ、どうして! あんなに美味しかったのに! 国王陛下、お代わりなさろうとしたのに——!」
「ニナさん」
「だって! だってクロエ様!」
「お黙りなさい。……結果は、結果ですわ」
審査の講評が読み上げられた。曰く、「器、典礼の格を満たさず」。曰く、「盛り付け、祝いの膳の型に非ず」。曰く、「取り分けの儀、御前の作法に適さず」。
味についての言及は、最後に一行だけ。
「——味は、認める」
読み上げたのは式部官だけれど、その一行だけ、文の匂いが違った。あれはボリス・ブレゼの言葉だ。型の審査の真ん中で、あの人はその一行を、わざわざ残したのだ。
控えの間に戻ると、チームは沈黙の鍋だった。
マルセルさんは腕を組んで天井を見ている。リュカさんは壁にもたれて動かない。ニナさんはまだ目が赤い。アガットは黙ってお茶を配っている。こういう時に手が動くのが、この人の強さだ。
わたくしは、ノートを開いた。書くべきことを、書かなければならない。
「総括しますわ。——負けました。完敗ですわ」
「味は勝ってた」とリュカさんが低く言った。「銀杯亭の鍋、俺も味見の回し碗で食った。81点だ。あんたの物差しなら」
「ええ、わたくしも81点。味では2点、勝っていましたわね」
「なら——」
「味で2点勝って、勝負で完敗した。それが今日のすべてですのよ、リュカさん」
わたくしは、自分の文字を見つめた。83点。今朝、誇らしく書いた数字。
「御前試食会は味比べではない。型と典礼の儀式ですわ。それは最初から分かっていたつもりで——分かっていませんでしたの。『美味しければ、味が届けば、覆せる』と、心のどこかで思っていた。土俵の読み違い。献立設計の責任者は、わたくし。この敗北の点数は、わたくしにつきますわ」
ノートに、書く。
『一の皿:敗北(4位/5組)。銅鍋亭83点、銀杯亭81点。味で勝ち、型で完敗。
敗因:設計者クロエの土俵の読み違い。「味は、認める」の一行に救われている場合ではない』
ぴしり、と書き終えた時、ニナさんがぽつりと言った。
「……あの、クロエ様。ひとつ、変なことを言ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「審査団の碗、下げられていくのを近くで見ましたの。それで……変な匂いがしましたわ。甘いような、痺れるような。お鍋の匂いではありませんでした。審査のお歴々の、碗の縁から」
ニナさんは自分の鼻先を、ちょん、と指した。
「全員ではありませんの。12人のうち、7人。同じ匂い」
審査員の、碗の縁。鍋の匂いではない、甘い匂い。7人だけ。
「……それは、お茶の匂いではなくて?」
「お茶なら分かりますわ。あれは、もっと——舌を撫でて鈍らせるような」
舌を、鈍らせる。
わたくしとリュカさんの目が、合った。彼の顔色が変わっている。王宮の水を9年飲んだ人の、心当たりのある顔だ。
「……リュカさん?」
「いや。……まだ、何も言えない。確証がない」
「では確証を取りましょう。ニナさん、その鼻、二の皿の本選でも頼りにしてよろしくて?」
「はいっ。匂いを覚えるのは、5歳からの遊びですもの」
本選——二の皿、自由部門は、建国祭最終日。7日後だ。
帰り道。王宮の門を出ると、夕暮れの橋の上で、マルセルさんがぼそりと言った。
「……おい、味見係。しょぼくれてんのか」
「あら。しょぼくれて見えまして?」
「見えるね。83点の顔だ」
うまいことをおっしゃる。
「なら、決まりだろうが」
マルセルさんは、橋の向こうの下町の灯りを顎でしゃくった。
「うちの店じゃあな、しょぼくれた奴には飯を食わせる決まりなんだよ。帰るぞ。今夜は俺が作る。300年の配合だ」
……ええ。ええ、そうでしたわね。
帰ったら炒め麦粥を食べて、寝て、明日から7日で、この完敗をひっくり返す算段を立てる。負けた日の夜にすべきことは、それで全部だ。
『追記:審査団7/12名の碗に異臭(ニナ検知)。甘い、舌を鈍らせる匂い。リュカ、心当たりの顔。要追跡。
追記の追記:炒め麦粥、本日も73点。効能、本日も満点』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。負けた日こそ、つけるのよ。——点数は、明日の地図ですもの」
次話:「敗因は舌で探しますわ」




