第14話「お忍びの常連客」
その夜、閉店間際の銅鍋亭に、おかしな二人連れが入ってきた。
一人は、フードを目深にかぶった若い男の人。もう一人は、岩のような体格の無口な大男。フードの方は上等な革手袋をはめたまま席に着こうとして、大男に小声で「手袋」と注意されて、慌てて外した。
……あの、お忍びにしても、もう少しこう、研鑽を積んでいただけませんこと。
声で分かった。手の白さで分かった。何より——フードの奥からこちらを盗み見る、あの気まずそうな目。
ジルベール・フォン・エクレール第一王子殿下。わたくしを断罪した、ご本人である。
内心の声をすべて飲み込んで、わたくしは商売の顔を作った。
「いらっしゃいまし。お二人ですの?」
「あ、ああ……定食を、2つ。それと、白いスープというのを」
「かしこまりました」
ご注文の声、裏返っていらしてよ。
厨房に通すと、リュカさんが気配だけで何かを察して、背筋を伸ばした。王宮勤めの勘というやつだろう。マルセルさんは「身なりのいい兄ちゃんだな」程度の顔で鍋をかき回し、ニナさんは何も気づかず水を運んでいく。アガットは——とっくに全部把握した目で、お盆を胸に抱えて、フードの卓を毒見役のように見据えている。把握が早い。
定食が出た。
わたくしは勘定台から、それとなく観察した。味見係の職業病である。
フードの殿下は、まずシチューの湯気を嗅いだ。それから一匙、口に運んで——止まった。
「……澄んでいるのに、厚い」
ぼそりと、連れに言う。
「香草が出しゃばらない。肉の甘みの後ろに、ちゃんと控えてる。それにこのパン、出汁を吸ってもふやけない。計算されてる」
あら。
あらあらあら、まあ。
言うじゃないの。澄んでいるのに厚い——今日のシチューの出来を、わたくしなら「68点。透明度と厚みの両立が今週の収穫」と書く。方向が、完全に合っている。あの夜会で「砂糖の暴力」も見抜けなかった有象無象とは、舌の出来が違う。
殿下はそのまま、黙々と食べ進めた。白いスープでは匙が二度止まって、二度目のあとに小さく息を吐いた。あれは美味しいものに参った人の、降参の息だ。
そして完食。パンの欠片で器を拭うところまで、お忍びの設定を忘れた庶民の食べ方だった。
「……宮廷の飯より、うまい」
聞こえましたわよ、殿下。
お勘定の段になって、フードの殿下は銀貨を多めに置いた。
「釣りは、いい」
「いただきすぎですわ。お釣りは銅貨7枚、お納めくださいまし」
「い、いや、だから釣りは」
「当店、お代は味の分だけ頂戴しておりますの。それ以上はチップではなく、帳簿の乱れと申しますのよ」
きっちり7枚、数えて返した。殿下は釣りを受け取りながら、フードの奥でわたくしの顔を、まじまじと見た。
気づいているなら、気づいていると、おっしゃればよろしいのに。
わたくしも、気づかないふりを続けますけれど。
「……女将」
「女将はあちらの厨房の主ですわ。わたくしは味見係ですの」
「味見、係……。その、つかぬことを訊くが」
殿下はもごもごと、靴の先を見ながらおっしゃった。
「この店の味見係は……息災、なのか」
ご本人を前に、何を訊いていらっしゃるのかしら、この方は。
「ご覧の通り、よく食べてよく眠り、毎日楽しく点をつけておりますわ」
「そ、そうか。いや、別に、俺は……そうか。楽しく、か」
殿下は何かを言いかけて、結局「また来る」とだけ残して、大男と一緒に夜の通りへ消えた。扉が閉まる寸前、大男の「殿下、足元に」という低い声と、「しっ、馬鹿、その呼び方は」という慌てた声が、ばっちり聞こえた。
お忍び29点。減点理由、ほぼ全部。
「クロエ様、クロエ様」
片付けに来たニナさんが、首を傾げた。
「デンカって、なんですの? 新しいお菓子かしら」
「ええ、たぶん、ふわふわして甘やかされて育った系のお菓子ですわ」
「まあ! 食べてみたい!」
あれはお腹を壊しましてよ、たぶん。
それから、フードの殿下は週に2度ほど現れる謎の常連になった。
毎回フードで、毎回シチューと白いスープを頼み、毎回チップを置こうとして毎回お釣りを返される。3回目からはジョフロワさんに「兄さん、いい食べっぷりだの」と話しかけられて挙動不審になり、5回目にはニナさんに「フードの旦那」という渾名をつけられた。7回目にはマルセルさんから「いつもの兄ちゃん」枠に昇格して、注文の前にシチューが出てくるようになった。
下町の常連製造機、恐るべし。
そして奇妙なことに——フードの旦那の食後の独り言は、毎回、的確だった。
「今日の煮込みは、昨日までと肉の下味が違う。塩が一晩、深く入ってる」
正解。リュカさんが下味の手順を変えた初日だった。
「白いスープ、今日は出来がいい。パンの炙りが、いつもより香ばしい」
正解。アガットが炙り係に昇格した日だった。……ところでこの事実は、後で本人にこっそり教えて差し上げた。彼女のカップを置く手が、その晩ずっと機嫌よく無音だったことを、記録しておく。
ある晩、リュカさんが勘定台に来て、声を落とした。
「……なあ。あの客、気づいてるか」
「フードの旦那? 何にですの?」
「とぼけるな。あれは——」
「ええ、存じていますわ。初日から」
リュカさんは天井を仰いだ。
「……気づいてて、釣りを叩き返してたのか。王族に」
「叩き返してなどいませんわ。丁寧に、1枚ずつ数えて差し上げただけ」
「それを世間では何と言うか知ってるか」
「正確な経理と申しますのよ」
リュカさんは額を押さえて、それから観念したように小さく笑った。
「……あんたって人は。王宮中が知ったら卒倒するぞ。断罪された令嬢の店に、断罪した王子が通ってるなんてな」
「あら。よろしいんじゃなくて?」
わたくしはノートを開きながら、本心から言った。
「あの方の舌は、夜会の口上より、ずっと正直でしてよ。わたくし、人の言葉の点数はつけませんけれど——舌の点数なら、あの方、結構いい線いっていますわ」
『フードの旦那(仮名):週2回ペースで定着。舌、想定外に良い。食後の独り言の的中率、現在10割。
彼が皿を残した日は一度もない。断罪の夜の立食を含めて、考えてみれば——あの方が王宮で「うまい」と言える食事を、していたのかしらね。
定食71点(下味改善で+α)。80点まで、あと9。
お忍び技術29点。改善案:まず手袋と「殿下」呼びをどうにかなさいまし』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。今夜は1名さま、舌の点数が高うございましたわ」
次話:「御前試食会の招待状」




