第13話「宮廷の不協和音」
その男の人は、開店前の銅鍋亭に、ノックもなしに入ってきた。
磨かれた革靴。仕立てのいい灰色の上着。小脇に革の帳面。——食べ比べの市の端に立っていた、あの人だった。
「王膳所書記官、クレマンと申します」
王膳所。王宮の食卓と、王都の食にまつわる典礼を司る部署。その長が、王膳長——宮廷料理長ボリス・ブレゼ。橋の向こうの、いちばん大きな台所の主。
クレマン書記官は店内を一瞥して、卓にも着かずに、巻紙を広げた。
「通達です。『近頃、下町において"点数"なる私的な格付けが流布し、市場の混乱を招いている。王都の食の秩序を預かる王膳所として、かかる催し——いわゆる食べ比べの市の自粛を求める』。以上、王膳長ボリス・ブレゼ様の名において」
がちゃん、と厨房で音がした。
リュカさんが、鍋を取り落としていた。あの人が仕込み中に物を落とすところを、わたくしは初めて見た。
書記官の目が、音の方を向く。そして、止まった。
「……おや」
薄い笑いが、口の端に浮かんだ。
「ミルポワではないか。生きていたのか。こんな、煮込み屋の隅で」
リュカさんは、答えなかった。落ちた鍋を拾う手が、白くなるほど握り込まれている。
「王膳長の顔に泥を塗った男が、今度は下町の騒ぎの片棒とは。つくづく——」
「書記官さま」
わたくしは、二人の間に立った。笑顔で。前世の苦情対応で鍛えた、上等の笑顔で。
「通達は承りましたわ。それで、ひとつ伺いたいのですけれど。その『秩序』とは、どなたの何を守る秩序ですの?」
「……なんですと?」
「食べ比べの市で、下町の店の味は上がりました。客足も、仕入れも、ギルドの帳簿も上を向いていますわ。混乱しているのは市場ではなく——もしかして、橋の向こうの面子では?」
書記官の頬が、ひくりと動いた。
「いち平民が、王膳所に意見すると?」
「あら、意見ではありませんわ。質問ですの。それと訂正をひとつ。市の主催はわたくしではなく町の皆さんですし、自粛の『要請』に従う義務は、調べました限り、どこの法にもございませんわね」
「……っ、よろしい。では王膳長様には、そのようにご報告いたしましょう。後悔なさいませんよう」
「ええ、どうぞ。あ、それと」
帰りかける背中に、わたくしは付け足した。
「ボリス・ブレゼ様に、お伝えくださいまし。下町の味見係が、いつかご挨拶に伺いたがっていた、と。——わたくし、王膳長様のお料理を、一度きちんといただいてみたいんですの」
書記官は振り返って、心底奇妙なものを見る目でわたくしを見て、出て行った。
扉の鈴が鳴り止んでも、店の中は静かなままだった。
その夜。
閉店後の店に、マルセルさんが無言で杯を3つ置いた。自分と、リュカさんと、なぜかわたくしの前に。中身は林檎の蒸留酒。アガットとニナさんには、温めた山羊乳。この采配に異論はないらしく、ニナさんは早くも蜂蜜を垂らしている。
「……飲め。それで、話せるとこまで話せ」
マルセルさんの不器用な合図だった。
リュカさんは杯を見つめて、長いこと黙っていた。火の爆ぜる音と、ニナさんが山羊乳をすする音だけが、店の中を回った。
「……ボリス・ブレゼは」
やがて、低い声が言った。
「俺の、師匠です」
誰も、驚かなかったと思う。あの書記官の口ぶりで、察しはついていた。でも本人の口から出ると、言葉の重さが違った。
「14で王宮の厨房に入って、9年。鍋洗いから、王膳長の直弟子まで上がった。あの人は……厳しいが、正しい人だ。王国料理の型を、それこそ命より重く守ってる。俺はその型を、全部あの人から貰った」
「その方の顔に、泥を?」
「————レシピを、変えた」
リュカさんの手が、杯を握り込んだ。
「王膳の正餐に出す皿の、200年続いた配合を、俺は勝手に変えて出した。それが知れて、その日のうちに厨房を出された。……理由は」
そこで、言葉が止まった。
口が開きかけて、閉じる。何かが喉元まで来て、引き返していくのが見えた。
「……理由は、言えない。まだ。ただ——師匠は、間違っていない。規則を破ったのは俺だ。あの人は規則の通りに、俺を追った。それだけのことです」
それだけ、のはずがない。
200年の配合を「勝手に」変える人ではないのだ、この人は。10日も観察すれば分かる。リュカ・ミルポワの料理は、いつだって理由から始まる。ジョフロワさんの歯のために肉の向きを変えるような人が、理由もなく王膳の型を破るはずがない。
でも、わたくしは訊かなかった。
蓋をした鍋。火にかけ続ければ、いつか持ち上がる。今夜はまだ、その時ではない。
「……そうか」
マルセルさんが、それだけ言って立ち上がった。そして厨房に入ると、ごとごとと何かを始めた。
しばらくして出てきたのは、湯気の立つ深皿だった。
刻んだ昨日の肉と、冷や飯ならぬ冷えた麦粥を、ラードで香ばしく炒め直したもの。上に半熟の卵。賄いの中の賄い、男の手料理の極北みたいな一皿。それをマルセルさんは、どん、とリュカさんの前に置いた。
「食え」
「……俺は、別に腹は」
「うちの厨房じゃあな」
マルセルさんは、ぶっきらぼうに言った。
「しょぼくれた奴には、飯を食わせる決まりなんだよ。300年続く配合だ。破るんじゃねえ」
……300年。この店、築何年でしたかしら。
リュカさんは一瞬笑いかけて、失敗して、変な顔のまま匙を取った。ひと口。ふた口。三口目から、急に速くなった。あの分解するような食べ方ではなく、ただの、腹を空かせた若者の食べ方だった。
「クロエ様、採点は?」と、ニナさんが小声で。
「73点。技術部門は60点ですけれど」
わたくしも小声で答えて、付け足した。
「効能部門が、満点ですもの」
空になった皿の前で、リュカさんが「……うまかった、です」と言った。点数ではない感想を、この人の口から初めて聞いた気がする。
『王膳所より自粛要請(法的根拠なし・受け流し済み)。書記官クレマン、革靴の男と同一。
ボリス・ブレゼ=リュカの師匠。9年の直弟子。追放理由:200年の配合を変更——動機は本人封印中。「師匠は間違っていない」と言う追放者。この事件、味見が必要。
マルセルさんの炒め麦粥73点(効能満点)。
所感:橋の向こうから不協和音。でも、こちらの厨房の音は、今夜も合っている』
「お嬢様。また点をつけていますね」
「ええ。——ねえ、アガット。300年の決まりですって。うちの親方ったら、お茶目だと思わなくて?」
アガットは杯を片付けながら、いつもの平坦さで答えた。
「いいえ。あれはこの店の、本当の決まりです」
次話:「お忍びの常連客」




