第1B話: 試練開始 ― 魔物 vs ハンター
「待ってくれ、行かないでくれ! まだ聞きたいことが――」
ノルの声は、冷たい静寂に吸い込まれて消えた。
ファクロウが去った森の奥を見つめたまま、ノルは呆然と立ち尽くす。
……これから、俺はどうすればいい?
試験の本当の目的すら、まだ分かっていない。中央の村に戻るべきなのか。それとも、ここで資源を集めるか、特別なアイテムを探すべきなのか。
頭の中に疑問が濁流のように押し寄せ、思考がまとまらない。
何から考えればいい。どこから手を付ければ――。
その時、不自然なほどの静けさが肌を刺した。ファクロウの前では強がって口に出さなかったが、時間が経つにつれて、奇妙な鳥肌が腕に立ち続けている。
『この森には生き物が多いが、俺はあまり来ねぇ。夜になると特に危険だからな』
『お前のインベントリには、生き延びるための基本装備が揃っている。剣、ツルハシ、斧、クワだ』
『運が良ければ……夜明けまで生き残れるかもしれん』
脳裏に蘇るファクロウの言葉。そのピースが、ノルの頭の中で一つに繋がった。
「なるほど……そういうことか」
あいつがわざわざウサギを狩ってみせたのは、俺に食料源の確保を意識させるためだ。
ノルは手元のインベントリを確認した。支給されたのは、剣、斧、ツルハシ、クワ。
剣は護身用。夜は危険。
――まさか、組織の敷地内に本物のモンスターがいるなんて。いや、そんなはずは。
だが、管理局のやり方は最初から常軌を逸している。駅のトイレでガスを使って受験者を拉致するような組織だ。何が起きてもおかしくはない。
「……今は考えても仕方ないな」
斧は避難場所を作るために木を切り出す道具だとして、ツルハシとクワは何のためにある? それに、この妙な液体が入った管はどう使えばいいんだ。ノルは困惑を隠せないまま、その奇妙な支給品を見つめた。
『なあ、ここって一体どこなんだ?』
『知らん。命令は“中央の村からできるだけ遠くへ連れて行け”だけだったからな』
あのぶっきらぼうな男の顔が浮かぶ。
「……ウサギの生態を知っていたくせに『知らん』と言い放ったのは、俺を焦らせるためか」
落ち着いて考える時間を奪い、極限状態に追い込むための罠。他の余計な情報も、おそらくはただの撹乱だ。本当に重要なヒントから目を逸らさせるための。
「よし、覚悟は決めた」
ノルは空を見上げ、太陽の位置を測った。
日没まで、あとおよそ八時間。食料を集め、安全な避難場所を構築するには十分な時間だ。
シーン2
しかし、現実は甘くなかった。
「くそっ、このウサギども……少しは大人しくしやがれ!」
茂みの中、ノルは必死に手を伸ばしたが、獲物は小馬鹿にするような速度で身を翻す。何度も跳びかかり、その度に地面に這いつくばる羽目になった。
勢い余って太い幹に正面から激突し、激しい衝撃に顔をしかめる。
「痛つつ……別に好きでお前らを追いかけてるわけじゃねぇんだからな!」
その衝撃で、頭上の枝から真っ赤なリンゴが一つ、手元に落ちてきた。
ノルは痛む額をさすりながら、降伏の溜息をついた。
「……ちぇっ。今回はお前らの勝ちだ」
ぶつぶつと文句を言いながらリンゴを齧る。酸味の強い果汁が、焦る喉を潤した。
結局、ノルはファクロウに置き去りにされた開拓地へと戻ってきた。その足元には、ウサギの代わりに大量のリンゴが積み上げられている。
「食料はこれで確保した。次は避難場所だな」
水のボトルを一気に飲み干し、空になった容器を投げ捨てる。
まずは頑丈な拠点が必要だ。ノルは斧を構え、周囲の一際太い幹に刃を叩きつけた。小気味よい音が響き、やがて大木が地響きを立てて倒れる。
しかし、その丸太を動かそうとした瞬間、絶望が襲った。
「……重すぎ、だろ……これ……」
びくともしない。肩で激しく息をしながら、ノルは即座に額の汗を拭った。
「無理だな。作戦変更だ」
太い枝を切り落として屋根の骨組みにし、幹は細かく切り刻んで積み上げることで壁にする。黙々と手を動かし続けるうちに、太陽は情け容赦なく傾いていった。時折、僅かな水を口に含みながら、木材を組み上げていく。
シーン3
「よし……なんとか、完成……した……!」
汗だくになり、疲労困憊の体でノルは声を漏らした。
目の前にあるのは、木材を雑に積み上げただけの、大人一人が辛うじて横になれる程度の粗末な犬小屋のようなシェルターだ。
「あとは、扉をつければ……完――」
その瞬間、世界のスイッチが切られたかのように、周囲の光が急速に失われた。
嘘だろ、もう夜なのか。
ガサリ、と不穏な音が木々の隙間から漏れ出す。同時に、地を這うような、低く濁った唸り声が響き渡った。
「な、なんだ今の音……? まさか……本当に……」
恐怖にノルの目が見開かれる。組織の内部に、本物のモンスターがいる。
「いや、考えてる暇はない! 扉がないんじゃ籠城もクソもない、どうする――」
影が動いた。茂みから、そして木陰から、青白い皮膚を引き摺るようにして現れたのは、十体ほどのゾンビだった。
(……数は十。落ち着け、学院で習ったことを思い出せ)
ノルは必死に心臓の鼓動を抑え込んだ。
意志を持たないアンデッド系モンスターは最弱クラス。本能のままに獲物を追うだけの存在。目の前の連中は、間違いなくそのタイプだ。
(なら……いける!)
インベントリから支給された剣を引き抜き、ノルは地を蹴った。
(四肢を狙え。下級のモンスターには再生力がない。腕を落とせば攻撃を封じられるし、脚を払えば追跡は不可能になる!)
迫り来る腐った爪を紙一重でかわし、訓練通りに刃を振るう。一体、また一体と、ノルの正確な一撃がゾンビの肉を裂き、沈黙させていく。
「はぁ……はぁ……終わった……」
最後の一体が地面に倒れ伏すのを見届け、ノルは深く息を吐き出した。全身から力が抜けかける。
「少しくらい、休んでも……いいよな……」
安堵の笑みが唇に浮かんだ、その時だった。
再び、森の奥から無数の足音が響いた。現れたのは、先ほどを遥かに上回る数のゾンビの群れだ。
ノルは頬を引きつらせながらも、再び剣を構え直した。
「……まだいやがったのか。いいぜ、全員まとめて相手してやる!」
だが、次の瞬間、ノルの自信は木端微塵に砕かれた。
前列のゾンビが、猛烈な速度で地面を蹴り、跳躍してきたのだ。
「なっ――動きが、まるで違う!?」
驚愕しながらも、反射的に刃で受け止める。凄まじい衝撃が腕を痺れさせた。
動きが違いすぎる。まさか、倒された同族の肉を喰って進化したのか。
(まずい。だけど、知性を持つ上位種さえいなければ、まだ何とか――)
しかし、多勢に無勢だった。数が多すぎる。倒しても倒しても、闇の奥から新しい影が這い出してくる。
「くそっ、このままじゃ体力が……!」
焦りが隙を生んだ。
「ぐあッ!?」
ゾンビの爪がノルの腕を裂き、頬をかすめ、脚の肉をえぐる。鋭い痛みが全身を駆け巡り、視界が血の赤に染まりかける。
「かかってこいよッ! 一人でも全員でもいい! 俺は……まだ戦えるッ!」
半ば狂乱しながら、ノルはがむしゃらに剣を振り回した。傷が増える。視界が狭まる。
「来いよ! 次はどいつだ! まだ終わらねぇ、終わってたまるか――」
一体のゾンビがノルの大振りを完全に先読みしてかわした。
激しく振り下ろされた刃は、ゾンビの身体ではなく、背後の巨大な岩へと直撃する。
甲高い金属音が夜の森に響き渡り――ノルの手元で、剣が真っ二つに折れ飛んだ。
「……嘘、だろ……剣が……」
愕然として、折れた刃を見つめる。その瞬間、脳内を支配していた熱が一気に冷め、純粋な死の恐怖が心臓を掴んだ。
まずい。武器がない。モンスターが眼前に迫っている。
「――ひッ!」
反射的に、ノルは踵を返して走り出した。
シーン4
「走れ……走れぇッ! 生き残る方法を考えろ!」
背後から迫る無数の足音と唸り声。ノルは完全にパニックに陥りながら、死に物狂いで足を動かした。
「ジグザグに走れ! 蛇みたいにくねれ! 逃げろ、逃げるんだ――!」
木々をすり抜け、がむしゃらに突き進んだ先で、突如として視界が開けた。
行き止まり。目の前は切り立った崖だった。そしてその遙か下方には、月光を反射して黒く光る湖が見える。
「……助かった!」
ノルは迷わなかった。躊躇なく崖の縁を蹴り、夜空へと身体を投げ出す。
激しい風の音が耳を打った直後、冷たい水が全身を包み込んだ。
ザハァッ! と水面から顔を出し、必死に腕を動かして対岸の岸辺へと泳ぎ着く。泥に塗れながら這い上がり、仰向けにひっくり返った。
「……ふう……生きてる、俺……」
しかし、体力の限界は近かった。このままでは、もし眠ってしまえばその隙に喰われる。疲労さえなければ一晩中でも戦えたはずなのに、今の身体は鉛のように重い。
いや、落ち込んでいる場合じゃない。考えろ。こういう極限状態の時、あのプロの狩人なら――ファクロウならどうする。
脳裏に、木の上で器用に枝を組み合わせて巣を作り、フクロウの真似をして鳴いているファクロウの姿が浮かんだ。
「……全然参考にならねぇよ、あの鳥かぶれのバカファクロウ……!」
己のくだらない妄想を振り払うように頭を振った時、ノルの目に一際巨大なオークの大木が留まった。その根元近くに、大きな空洞が開いている。
「うろの木……!」
ノルの顔に、一筋の希望の光が差した。これなら完璧だ。
「よし、入れるか……よっ……くそ、もう少し……!」
狭い穴に泥だらけの身体をねじ込み、這うようにして内部へと潜り込む。
これなら全方位を囲まれる心配はない。おまけに、さっき湖に落ちたおかげで全身の血臭や人間の匂いが完全に消え去っている。追跡能力のあるモンスターでも、この状態の俺を見つけるのは不可能なはずだ。
狭く暗い木の空洞の中で、膝を抱えながら、ノルはしんみりと呟いた。
「……父さん。オユキ。今の俺を見たら、きっと失望するよな……」
準備はできているつもりだった。学院での努力には自信があった。だけど、本物の現場は、あいつらの言う「世界」は、俺の想像を遥かに超えていた。
「全然、ダメだった……。ごめん……」
小さく頭を下げ、重い目蓋を閉じる。ノルの意識は深い眠りへと落ちていった。
外の暗い森では、行き場を失ったゾンビたちが、あてもなく徘徊を続けていた。
シーン5
木の隙間から、眩しい一筋の光が差し込み、ノルの顔を照らした。
「ふぁ……あ……」
大きなあくびをしながら、ノルは目を覚ます。
「おはよう……。あ、そうだ。俺、狩人の試験中だった……」
完全に朝だ。太陽の光が森を満たしている。知識が正しければ、夜行性のモンスターどもは日光によって消滅したはずだ。なら、もう外に出ても大丈夫だろう。
ノルは痛む身体を引き摺りながら、ゆっくりと木の外へと這い出た。
その様子を、遥か上方の山頂から見下ろしている三つの影があった。
「おお……本当に生き延びたか。正直、一時間で死んだと思ってたんだけどな」
双眼鏡を覗きながら、ファクロウが意外そうに口笛を鳴らす。
その隣で、漆黒の外套を纏った男――フォーカスが、冷徹な声を響かせた。
「……運が良かっただけだ。あんな間抜けな逃げ方でよく生き残れたもんだ」
「どうあれ結果は同じだろ? 重要なのは、あいつが“生き延びた”っていう厳然たる事実だ」
ファクロウが肩をすくめてリストに目を落とす。しかしフォーカスは、その鋭い眼光をさらに険しくした。
「……だから組織は落ちぶれるんですよ」
その声には、深い侮蔑と冷ややかな怒りが籠もっていた。
「今夜だけで、何人もの才能ある志願者が死んだ。必死に努力してここまで来た有望株たちが、今は土の中か、あるいはモンスターの腹の中だ。そんな中で、あんな何一つ取り柄のない凡庸な奴が生きてるなんて……不公平だと思いませんか?」
「不公平、か。確かに一理あるな」
背後の岩の上に腰掛けていた大柄な男――雷電 柴田が、静かに口を開いた。その髭を蓄えた顔には、深い年輪のような落ち着きがある。
「才能ある者が散るのは悲しい。彼らは本来、組織の未来を担うべき器だった。だがフォーカス……その運命を選んだのは彼ら自身だ。誰も無理強いはしていない」
雷電は立ち上がり、崖の淵から下の森を見下ろした。
「才能だけで勝てるほど、この世界は甘くない。時には知恵、そして“運”が生死を分ける。今日、あいつは生き延びた。まずはそれを讃えてやるべきだ。早まった判断はするな、フォーカス。覚えておけ――運は永遠ではない」
雷電の眼差しが、遠くで周囲を警戒しているノルの小さな姿を捉える。
「もし明日、あいつが死ねば、お前の言う通りただの凡人が運を使い果たしたというだけのこと。だが……もし死なさず、ここからさらに強くなり続けたなら――」
雷電の唇に、穏やかで、しかし深い期待を込めた微笑が浮かんだ。
「俺たちは今、“次代の狩人”の産声を体験していることになる。運もまた……実力のうちだ」
その後ろで、ファクロウが「違いない」と低く笑った。
フォーカスは雷電の言葉に気圧され、少し気まずそうに視線を落とした。
「……心得ました、雷電様。ファクロウ、無駄話は終わりだ。登録作業を続けるぞ」
「わーってるよ、そう怒るなって」
ファクロウは笑いながら端末のリストをタップした。
「志願者番号二百八十六番、生存確認。よし……次はセクター4の確認に行くか」
シーン6
場所は変わり、大理石と緻密な装飾に彩られた、まるで宮殿のような管理局の一室。
窓際に立ち、遥か下方の街並みを見下ろしている男がいた。ケナイ・オザワ。組織の頂点に近い存在だ。
背後の扉が開き、白衣を纏った科学者マッサルが静かに歩み寄る。
「ケナイ様。今夜の生存試験における、志願者たちの報告書です」
「ご苦労。試験の経過はどうだ? 気になる者はいたか」
ケナイは振り返ることなく、淡々と問いかけた。マッサルは手元の資料をめくりながら、薄い笑みを浮かべる。
「有望株が数名。今年は例年にない“当たり年”のようでして……。そして、その中でも特に――『VIP』が一人、混ざっております」
「VIP……」
ケナイがようやく顔を動かし、その鋭い眼光をマッサルに向けた。
「久しぶりに聞く響きだな。そいつも含め、有望な者たちを継続して監視しろ」
「承知いたしました、ケナイ様」
マッサルは恭しく一礼し、退室しようと足を動かす。その背中に、ケナイの冷徹な声が突き刺さった。
「マッサル。準備が整い次第……最優秀の者だけを私の前に連れてこい。私の時間を無駄にするなよ」
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
静かに扉が閉まる。
一人残されたケナイの顔に、窓からの光が陰影を落とす。その瞳には、底知れない野心と冷酷な計算が渦巻いていた。
同じ頃、朝の光に包まれた森の中で、ノル・タケダは遠くの景色を見つめていた。
ボロボロになった身体。折れた剣。己の無力さを嫌というほど思い知らされた夜。
しかし、その瞳の奥にある炎は、決して消えてはいなかった。むしろ、より強く、深い決意を宿して、昇りゆく太陽を真っ直ぐに見据えていた。




