六
よく晴れた日だった。暑さはあるが、カラッとした暑さで嫌な気分はしない。簡素な部屋は思いの外心地よく、ホテルで昼飯を食べ終わったばかりの二人は、昨日とは比べ物にならないほど血色の良い顔で海風を感じていた。
フェリーに乗るために並ぶ客は、この港町の廃れようから考えると多い方であった。やはり、あのホテルに泊まる客のほとんどが『魚島』を目当てにしているらしい。
「『魚島』なんて聞いたことないがな」
青木は、清々しいほどのオーシャンブルーに目を細めながら言った。
「僕たちは世間知らずですからねぇ」
小川は待ちくたびれて柵に寄りかかり、両腕を組んでその上に顎をついている。この気候のもと、金属が独特の生温さを小川に感じさせる。
ボーーーーっと、警笛のような音が鳴って列が前に進みだした。チケット確認を前の客に続いて手際よく済ませると、自分たちの席をすぐに見つけ、座った。座席は前向き二列が両側に並ぶ形態である。窓際の小川は、そこからさっきまでさんざん眺めていた海をまた覗いた。
シミがついたり何か白いものが流れたようなあとがあったりして、少し霞んで見える。
「あっ、見てください、青木さん! トビウオが跳ねましたよ!」
小川の指差す先を見やると、なるほど、たしかに青い水面を白い水しぶきと共に切り裂く何かがいるようだ。
「あれは、トビウオなのか?」
「さあ? あっ! また跳ねた」
小川は子供のような喚声をあげた。
「おー、動いてる動いてる」
フェリーはみるみるうちにスピードを上げていった。小川の目線は水平線のあたりに移った。小さな船が同じく、勢いよく水しぶきをあげ、グーンとうなっている——実際に音は聞こえてこないが、そのはずだ。真下の海が、進むのとは逆にその塩分を漂わせているのを見て、小川はその想像を確信した。
現地語での船内アナウンスを馬耳東風で聞き流して青木は目を瞑ったが、居眠りなどする暇もないうちに、フェリーは耳が痛くなりそうなブレーキ音と共に島の港に到着した。反動で、錆びた船体が、一仕事を終えたため息をつくように、唸る。
続々と降りていく観光客たちは、皆反射的に開放的なあたりを見回している。木製の埠頭を渡り終えて、小川は大きくのびをした。
「あの揺れは結構きつかったですねぇ。長時間乗ってたら、酔っちゃってましたよ」
のびきって、ふうっと息を吐いた。
「どこに行きましょう」
「あの男…………」
青木はいぶかしげに人ごみの中を覗いた。
「おい、あいつはプリズムじゃないか?」
「あっ、ほんとだ」
小川も少し腰を折ってそれに目を凝らした。
「プリズムさんですね。この島で僕たちの案内まで、してくれちゃったりするんじゃないですか?」
小川がそう言うと、その言葉がまるで彼に聞こえたかのように、プリズムは二人に気がつき、歩み寄ってきた。青木も小川も覚えず少し後ずさりしたが、思い直してプリズムが距離を詰めてくるのを待った。
「いやいや、青木探偵。探しましたよ。さあ! 行きましょう」
思った通り、プリズムは二人の案内役をリンから仰せつかっていたようだ。青木は少し顔をしかめて、小川の方を向いて首をひねった。小川はそれが何かの合図なのか、同意を求めるものなのかはかりかね、とりあえず青木と同じように、首を傾げておいた。
何はともあれ、ここら一帯の地理に関して素人な青木たちは、指示されるまま、言われるがままにするより他にない。
「こっちは暑いでしょう? でも日本の方もたびたび行きますけど、とにかく人が多い。『ナツ』ならめまいをおこして倒れそうなくらいにね」
「はあ……」
「『魚島』の話はリンさんから聞いてます? あっ、そうそう! リンさんって不思議な人でしょう? 彼女ね、うちらの間じゃ『機械人間』なんて呼ばれてるんですよー」
「機械人間?」
「ひどいでしょう? いくらリンさんが何から何まで仕事をミスなくこなすからって、まるで電子式汎用計算機のように……ああ! コンピュータのことね」
青木が思わずうっ、と小声を漏らした。すっかりアレルギーになっているらしい。
「やっぱり、プリズムさんって日本語お上手ですね」
小川が感嘆のため息をついた。
「まあ……そうですね」
プリズムは青空を斜めに見上げた。先程まで生き生きと喋っていた態度を一変させたプリズムのこの反応を、二人は不思議に思ったがそれも一瞬のことだった。
「あっ! ほら、あそこが『魚島』名物の釣りコーナーですよ! 釣って行きますか?」
「うーん、それよりも私らは、事件の手がかりを掴みたいんですがね」
青木が頭を掻きながら言うのを見て、プリズムは面白くなさそうな顔をした。
「仕事ばっかりの人って、嫌いですぅ。しょうがないですね。じゃあ、質問に答えてもらいましょう」
プリズムは海岸の喧騒から離れた、崖の近くまで二人を連れて行くと、人差し指を二人の前に突き立てた。
「第一問、この島の名前は何でしょう?」
「えっ、さかなじま?」
小川が即答する。
「正解! 続けて第二問」
プリズムは妙に早口である。
「この島の『裏の』名前は?」
「それが、もしやパラダイス島か」
「正解です。これがあなた達にあげるよう命令されたヒントです。これ以上も以下もないように、とリンさんは言ってましたよ」
青木と小川は同時にはあ? とへんてこな声を上げた。
「それって、何のヒントにもなってませんよね。今までに聞いた話ですし」
「うーん、どうなんでしょうね。リンさん——あの人の考えていることなんて、想像もつきませんよ」
プリズムはそう言い残すと、二人から離れていこうとする。
「ちょ、ちょっと」
「ああ、僕の仕事はここまでなんで! あとは勝手にやってください」
「最初からそのつもりだ」と青木はプリズムには聞こえないくらいの小声でつぶやいた。
「でもどうしましょう。ヒントは……」
「メモしたか?」
「あっ、忘れてた」
「おい、早くしろ! ……はあ、これだから。お前、環境が変わっても当たり前のことは当たり前のようにできなきゃダメだぞ。そんなことではいつまでたっても一人前の探偵にはなれんな」
小川はムッとして、「青木さん、そのセリフ、鏡に向かって言ってみたらどうですか?」
「なっ、貴様……」
小川はもう知らん顔をしてペンを走らせている。
青木は小川と言い争うのを諦めて、プリズムが去っていった方向を見やった。プリズムは、いつのまにか楽しそうに釣り客に混じっている。青木は、本当にこの島に手がかりなどあるのだろうか、と次第に不安になってきた。
「あー!!」
「なっ、何だ」
「分かりました! 謎が解けましたよ!」
「何、もうか?」
「はい! やっぱり聞くだけじゃ分からないんです! 書いてみないと」
小川は興奮の色を表情に浮かべながら説明を始めた。
「いいです? 第一問は『この島の名前は?』ですよね」
「私はその『第一問』とか『第二問』とか言う仰々しい言い回しにヒントがあると思うのだが……」
「黙って聞いててください! それで第二問は『この島の裏の名前は?』です。それが『パラダイス島』です」
「はあ……」
「『裏』なんですよ。『魚島』の」
「で?」
「ここまで言って分かりませんか?」
小川はどうしようもないというように、首を横に振った。
「ここは確かに『魚島』ですよ? でもこの山の向こう側は『パラダイス島』なんです」
「えっ?」
ぽかんと口を開けた青木のために小川は、砂浜に図を描いて説明し始めた。円形の島を描くと、山を真ん中に曲線であらわした。
「なんだこの銀河系みたいなのは」
「銀河系?」
「銀河系の断面図は、こんな感じだろう」
「うーん、まあなんでもいいですけど、これはこの崖ですよ。つまり山ですね」
小川はその山で分けられた二つの海岸にそれぞれ『魚島』『パラダイス島』と書き込んだ。
「おいおい、意味が分からんぞ」
「だから言ったでしょ? 『魚島』の裏が『パラダイス島』だって」
小川は得意げな表情で、砂に描かれた絵をじっと見つめている青木の方をうかがった。
「まさか、ここの反対側だから『裏』で、パラダイス島だとか言うんじゃないだろうな」
「そうですよ! これしかありません」
「……まあ荒っぽい推理ではあるが、試してみる価値はあるな」
青木は顎に手を当てて、大げさに頷いてみせた。助手に推理の先を越されたことは、青木にとって屈辱的であったが、それは顔に悟られないようにした。小川はそういう青木の心理を敏感に察知しながらも、何の言及もなしにして海岸沿いに歩き出した。
「どこかに向こう側へ行ける場所があるはずです」
小川の歩く速度が速まる。
「おい、ちょっ、ちょっと待って」
「青木さん! 早くしないと」
「べ、別にそんな急ぐ必要もないだろう。ゆっくり行こうゆっくり。慌てないのも捜査の基本だ」
「……そうですかね」
小川は渋々その要求を呑んで、青木のペースに歩幅を合わせた。二人は周囲を見回しながら、山肌からはぐれぬようにして砂浜をたどった。やがては崖の途切れる場所が現れるかと思われたが、一向にその気配はなく、ついに島の端っこまでやってきてしまった。しかし、そこからでも後ろを振り返ると釣りスポットの客の集団が粒ほどにして見える。何なら、騒ぐ声も風に乗ればほんの微かに聞こえる。この島は大分小規模のようだ。
「本当に向こう側があるのか?」
「……途中で山が途切れちゃったら、ちゃんと表と裏になりませんから」
小川は波の打ち寄せるギリギリに立ってみた。どうにも『裏側』をうかがうことはできそうもない。
「逆側に行ってみますか」
「もう疲れたな……」
青木の弱音を無視して、小川はまたズンズン歩き出す。
釣りスポットを通り過ぎる頃には、まだプリズムがワイワイガヤガヤ客とやっているのが見えた。
「プリズムさんは、もう僕たちには構わないんですかね」
「どうだかな」
青木はあからさまに顔をしかめた。
黙々と歩き続けたが、やはり山は聳えっぱなしであった。
「どこかに入口があるんでしょうか」
小川は腕組みをして考えた。青木は「はああ」と言って、その場に座り込んでしまった。
「ちょっと、こんなところに座らないでください! またクリーニングのおばちゃんに叱られるじゃないですか」
こんな雄大な場所にぽつんと居ると、小川のやかましい声も心地よい耳への刺激の一つに過ぎなかった。
青木は広大な海をのんびりと眺めた。こちら側の道は途中で凸凹しており、釣り人たちの喧騒からは隔離されている。青木はぽつんとひとり、島に置いてけぼりにされた漂流者の気分を想像した。
同じ青でも、海と空の区別はしっかりとつく。群青の海に、コバルトの空。それを分け隔てるのは、一本真っ直ぐに伸びた、透明な線である。
空を飛ぶ鳥を目で追いかけるうちに、青木は砂浜にとうとう寝転がった。が、すぐに飛び起きて、せわしなく左右を確認した。
「おい、小川?」
後ろを振り向くと、崖の前に小川は仁王立ちしていた。青木は立ち上がって砂を払った。
「何やってんだ」
「青木さん……ちょっと来てください」
「何なんだ」
青木は面倒臭そうに小川の元へ歩み寄った。
「何だ」
「見てください。ここから登れそうじゃないですか?」
小川の指差した先には、青木がさっきまで居た場所からは隠れて見えなかった、道が続いていた。しかし、それは本当に道なのか、たまたまこのように傾斜が緩くなっただけの崖のようにも思えた。そしてその先は全くの森で、これを登ったとしてそれからどうするのかという懸念もあった。
「うん、危ないからやめておけ」
青木は小川の案を、右手で空気を払うようにして、一蹴した。が、小川は取り憑かれたようにその砂利道に足を踏み出した。
「おい、行くのか?」
「ここで行かなくてどうするんですか」
小川は積極的に森の中へ消えていった。こうなっては青木も行くしかない。昨日から続いている足の筋肉痛に気をつけながら、坂道を踏みしめる。もっと滑るかと思われたが、履き古した愛用の靴が、うまく地面に引っかかってくれた。
小川は森の方を指差して興奮気味に「青木さん!」と呼びかけた。その先はたしかに、不自然に空洞となっている。ここから『裏側』へと進んでいけそうな道だ。
青木と小川は並んで歩き、森の内へと進入していった。
「たしかに、人が何度か通っていそうな道だな」
「ですね……」
小川は時々後ろを振り返っていたが、そのうち入口の海は見えなくなり、心細くなって青木の顔を見上げると、こちらも不安そうに辺りを見回している。
「迷っちゃったら、どうします?」
「は、はあ?迷うかあ? 普通、迷わんだろ」
見た目以上に青木は動揺しているようだ。いつもよりもろれつがあやしい。小川は青木のそんな様子を見て、逆に落ち着いてしまうのだった。
数分歩くと森を抜け、二人は真上から刺す日の光を浴びた。二人はほっとして、手を日除け代わりにしながらきらめく海に向かった。
「えーと、ここがパラダイス島ってことでいいんですかね。あっ、あそこに人がいます」
小川は既にほとんど身を傾けていたが、青木は「待て」とそれを遮った。よく見るとただの『人』ではないようだ。
「何か、兵士みたいですね」
「みたい、じゃなくて……そうだろ」
青木と小川はくるりと方向転換して森の方に戻ろうとしたが、時すでに遅く、他の兵士たちに背後を取られていた。
「なっ、」
「貴様らぁ! この不法侵入者めぇぇ」
「なっ、」
「連れて行け!!」
「なっ、なんて言ってるんだ?」
「分かりませんよ!!」
青木と小川は慌てふためくも、甲冑の兵士にほどなく捕らえられ、目隠しまでさせられてどこかへ連れて行かれてしまった。二人の心には、不安と後悔と恐怖とが、混沌と渦巻くのであった。




