第5話
夜会の窓枠を伝う冷気が、車内の澱んだ空気をさらに引き締めていた。
御者の鞭が鳴り、車輪が夜の石畳を勢いよく蹴り出す。暗闇を切り裂くように加速していく馬車のスピードは、そのまま今のテオの荒れ狂う心臓の鼓動そのものだった。
車内の緊密な空気の中、テオは荒い息を吐きながら、向かいに座るナタリーから目を逸らすことができなかった。
これまで彼を雁字搦めにしていた城壁が、音を立てて崩れ落ちていく。理性のタガが外れ、堰を切ったように感情の奔流が溢れ出した。
「すまなかった……!」
テオはたまらず身を乗り出し、ナタリーの華奢な両手を、縋るように、それでいて壊れ物を扱うように力強く包み込んだ。
「俺は……君をあんな奴らの前に晒してしまった。夫として君の盾にならなければならなかったのに、俺は過去の傷に怯えて、あの時、足がすくんでしまったんだ」
青白かった彼の顔には、今は確かな熱と生気が満ちている。黄金色の瞳にはもう、過去の亡霊に怯える弱々しい翳りはない。ただ眼の前にいる一人の女性への、火傷しそうなほどの燃え盛っていた。
「本当は、守りたかったのに……!いや、違う。最初から君に救われていたのは俺の方だ」
言葉が次々と、己の胸を切り裂くように口をついて出る。それは、これまで己を守るために彼女に浴びせてきた態度への激しい後悔と、劣等感の吐露だった。
「君のあの静かな強さに、飾らない気高さに、俺がどれほど救われていたか。女は皆、俺を裏切るものだと必死に信じ込もうとした……そうしなければ、また傷つくのが恐ろしかったんだ。だが、君は違った。君だけは、俺の言葉にも逃げず、この狂気から俺を引っ張り上げてくれた!」
抑えきれない思いが、狭い車内の空気を焼き尽くしていく。
「ナタリー、俺は……っ、俺は君を愛している。過去の傷などどうでもよくなるほど!」
熱に浮かされたように、息継ぎすら忘れるほどの勢いで放たれたその言葉は、形だけの夫婦という偽りの関係を打ち砕く、テオの魂からの叫びだった。
テオの瞳に燃える、熱を帯びた想い。そして、今まで一度も聞いたことのないほどの切実な告白が、狭い車内の空気を完全に支配していた。
「俺は君を愛している」
その言葉が胸の中で響いた瞬間、ナタリーの心で音を立てて何かが崩れ去った。
幼い頃から抱えてきた諦め。どんなに誠実に向き合おうとしても、結局は裏切られ、捨てられてきた記憶。傷つかないために張り巡らせ、どんな言葉も弾き返すと誓っていた心が、テオの放つ熱量の前に、まるで砂の城のように音を立てて崩れていく。
あぁ、この人は私を地味だと嘲笑われ、見捨てられた私を、こんなにも真っ直ぐに求めてくれている。
「私だって……!」
震える唇から、掠れた声が漏れた。ナタリーの瞳から、それまでどれほど辛いことがあってもこぼさなかった大粒の涙が、堰を切ったようにあふれ出す。
「私だって、あなたに出会ってから……!形だけの夫婦だなんて自分に言い聞かせながら、あなたのその深い傷や、裏にある孤独を見るたびに、気付けば胸が締め付けられていたんです……!」
これ以上ないほど必死に、心の奥底に隠し続けていた本音が熱を帯びてあふれ出る。達観はもうない。彼女の頬を濡らす涙は、愛を知らなかった人生が、初めて温もりを許された証だった。
「あなたが……テオ様が、これ以上過去の影に苦しまないで済むなら、私は邪険されてもあなたの心が平穏ならと思うほどに、私の方こそ……あなたを大事に思うようになってしまっているんです……っ!」
そう叫ぶように告げた瞬間、ナタリーは堪えきれなくなり、自ら身を乗り出してテオの胸へと飛び込んだ。
「ナタリー……!」
テオの腕が、力強く、そして壊れてしまいそうなほど愛おしげに彼女を抱きしめる。重なり合う二人の体温が、これまでの孤独や痛みを溶かしていくように熱く燃えていた。
車窓の外を流れる夜の街の明かりを背景に、傷だらけだった二人の心が初めて重なり合い、切なくも甘い涙の中でしっかりと結ばれていくのだった。
伯爵邸の私室に差し込む朝の光は、昨日までとはまるで違って温かく、どこまでも穏やかだった。
大きな執務室のデスク。そこにあるはずの重苦しい空気は跡形もなく消え去り、代わりに甘く芳ばしい焼き菓子の香りと、淹れたての紅茶の湯気がふんわりと漂っている。
今のテオにとって執務室のデスクはすでに仕事をする場所ではなくなっていた。
「テオ様、そんなに密着していては、書類にサインが書きづらいのではないですか……?」
クッキーの缶が置かれた小さなティーテーブルの脇で、ナタリーが困ったような、しかしどこか甘い笑みを浮かべて呟く。
そのすぐ隣――椅子ごとほとんど密着するように陣取っているテオは、ナタリーの肩に顔をうずめるようにして片腕をしっかりと回し、片手で無理やり書類をめくっていた。
「ダメだ。一秒たりとも離れたくない」
低く甘やかな声が、ナタリーの耳元で掠れる。
あれほどの重度だった影は消え去り、今のテオは、妻であるナタリー以外の一切を視界に入れたくないというほどの執着を見せていた。公私の場を問わず、ちょっとでも離れようものなら不機嫌な顔で追いすがるため、昨夜の一件以来、屋敷の執事や使用人たちはあまりの主人の変わり様に目を丸くしつつも、温かい眼差しで二人を見守っている。
「昨日の今日ですよ。お仕事が溜まっているのでしょう?」
「君の淹れてくれるお茶とこのお菓子があれば、仕事なんていくらでも捗る。……ほら、あーんして」
テオは焼き立ての小さなお菓子をつまむと、ふっと柔らかく微笑みながらナタリーの口元へと差し出した。
以前の彼からは想像もつかないほど甘えてくるその姿に、ナタリーはわずかに頬を赤らめながらも、愛おしそうに目を細めてそれを受け取る。
「……本当においしい。ねえ、テオ様」
「なんだい?」
「私、昔から自分のことを諦めていましたけれど……人生、何が起こるか分からないものですね」
ナタリーの言葉に、テオはふっと表情を和らげ、彼女の手をしっかりと握りしめた。その手のひらは温かく、もう二度と迷うことはないという強い意志が込められている。
「俺の方こそ、君に出会えたことが人生最大の奇跡だ。過去の傷なんて、君がすべて塗り替えてくれた」
かつて二度の裏切りに心を壊され、怯えていた男の顔には何の翳りもない。
窓辺の花が朝の光を受けて鮮やかに揺れる中、二人は甘い香りに包まれながら静かに見つめ合い、穏やかな笑みを交わし合う。
過去の傷や、夜会での悪意など、もう二度と二人の世界を揺るがすことはできない。
傷だらけだった二人はしっかりと手を取り合い、愛に満ちた確かな未来へと、眩しい光の中を共に歩み出していった。




