第2話
馬車の窓枠を伝う冷気が、車内の澱んだ空気をさらに引き締めていた。
外では、夜の闇に溶け込む街灯の光がちらちらと流れていく。これから向かうのは、国内の有力貴族が一堂に会する華やかな社交界のパーティーだ。領地経営や社交の義務として顔を出さねばならないとはいえ、今のテオにとって、あの喧騒と作り笑いに満ちた空間は苦痛以外の何物でもなかった。
「……行くぞ」
喉の奥から絞り出すような低い声とともに、テオは席に座ったまま微動だにしない。窓に映る自分の顔色は相変わらず青白く、その表情には深い倦怠感が張り付いていた。女性不信に陥って以来、他人の視線や群衆のざわめきの中に身を置くことは、針のむしろに座るようなものだった。
だが、そんな気鬱な夫の傍らで、ナタリーは少しも動じていなかった。
彼女は派手なドレスや流行の過剰な装飾を纏うことなく、深みのある藍色の上品なドレスに身を包んでいる。それは決して地味というわけではなく、素材の良さと仕立ての美しさが際立つ、極めて堅実で気品のある装いだった。
ナタリーは静かに手を伸ばすと、強ばった面持ちのテオのコートの襟元を整え、乱れたタイをそっと直した。その手つきには迷いがなく、ただ淡々と、しかし確かな手際で妻としての務めを果たしている。
「テオ様、お体の具合が優れないようでしたら、無理をなさらずとも私がお側に控えております。……大丈夫ですよ」
押し付けがましさのない、落ち着いた声色。
その柔らかな声音と、決して過剰に媚びることのない凛とした立ち居振る舞いは、暗く沈みかけていたテオの波立つ心を、まるで冷たい水ですすぐように不思議と鎮めていった。
(……なぜ、この女はこんなにも落ち着いていられる)
その行動や態度に、テオはかすかに息を呑む。
どうせ面倒な社交の場だとため息をつくでもなく、怯えるわけでもなく、ただ静かに夫を支えるその姿には、先日の荒れ果てた執務室とは違う、確かな強さがあった。
馬車が緩やかに減速し、車輪の音が石畳のそれに変わる。
煌びやかな夜会の会場がいよいよ目の前に迫り、外からは華やかな音楽と貴族たちの笑い声が微かに漏れ聞こえてくる。
戦場へと赴くような緊張感の中、ナタリーは静かに息を整えると、テオに向かって穏やかな笑みを向けた。その気高い眼差しに背中を押されるように、テオは重い腰を上げ、覚悟を決めたように馬車の扉に手を掛けた。
きらびやかなシャンデリアの光が、大広間の床を鏡のように照らし出している。その眩すぎる空間に一歩足を踏み入れた瞬間、テオとナタリーを待ち受けていたのは、歓迎ではなく、冷ややかな好奇の視線と、耳障りな噂話だった。
「あら、見てよ……あれが噂の、二度も女に逃げられたテオ様よ」
「本当だわ。顔色まで真っ青じゃない。よっぽど呪われているのね、あの伯爵家は」
「そして隣にいるのが、新しく迎えた奥方……って、何よあの地味なドレスは。まるで地方の田舎者だわ。流行の最先端すら知らないのかしら」
密やかな囁きのつもりなのだろうが、社交界の人間たちの悪意ある声音は、波のように重なってはっきりと二人の耳に届く。
さらに、ゴシップ好きで知られる取り巻きを引き連れた伯爵令嬢の一人が、わざわざ聞こえよがしにふっと鼻で笑った。
「ねえ、お気の毒だと思わない?前の婚約者の方たちにあんなに派手に遊ばれて捨てられた挙句、今度はあんな華のない地味な女を押し付けられるなんて。テオ様もいよいよ落ちぶれたものだわ」
周囲の貴族たちは、まるで珍しい見世物でも見るかのような視線を投げかけ、クスクスと品のない笑い声を広げていく。
テオの顔色が、怒りと過去の記憶によりさらに青ざめた。こめかみに青筋が浮き、女性不信という名の古傷がズキズキと痛む。他人の悪意と嘲笑が渦巻くこの空間に、テオの足が恐怖で釘付けになりそうになる。
(まただ……。どうせ俺は、嘲笑われるためにここにいるのか)
自嘲の念が胸を這い上がり、呼吸が浅くなる。テオが圧倒的に飲まれかけたその時だった。
「テオ様」
迷いのない足取りで一歩前に出たのは、ナタリーだった。
彼女は周囲の貴族たちの品のない視線を恐れるどころか、背筋をピンと張り、涼やかな眼差しでその場を見渡す。地味だと嘲笑された藍色のドレスは、彼女の揺るぎない気品を際立たせ、周囲の薄っぺらい装飾品を纏った令嬢たちをむしろ圧倒していた。
ナタリーはテオの腕にそっと自身の腕を絡めると、微動だにしない穏やかな笑みを浮かべる。その体温が、テオの理性を現実に引き戻した。
「他人の噂話しか花を咲かせる話題がない方々は、いつの時代もお寂しいものですね。……参りましょう、テオ様。あのような雑音に耳を傾ける価値はありませんわ」
凛とした声が、周囲のざわめきを切り裂くように響いた。
群衆からの声がわずかに気まずく途切れ、ざわめきがどよめきに変わる。テオは目を見張り、隣に立つ妻の横顔を見つめた。誰よりも怯え、傷ついているはずの彼女が、自分を庇うように堂々と立っている。
その揺るぎない誇りと強さに、テオの胸の奥で、冷え切っていた何かが熱を帯びて動き出すのだった。




