第1話
消えかけた暖炉の燃えかすと、冷めきった紅茶の匂いが、執務室の空気を澱ませている。
机に突っ伏したまま、テオは奥歯を強く噛み締めた。瞼の裏で、かつて愛を囁いた女たちの笑い声がざらついた音を立ててすれ違う。女のすべるような白い指が別の男の肩に絡みつく幻影が脳裏をかすめ、反射的に喉の奥が乾いた。カップに伸びかけた指先が途中で痙攣し、冷え切った陶器の縁を無意味に撫でる。青白い頬には、不眠と緊張でこびりついたような浅黒い陰が落ちている。
目の前で、わずかに気配が動いた。
薄い麻のドレスの裾が微かに擦れる音。そこにいるのは、形だけの妻――ナタリーだ。
「……いつまでそこに突っ立っている気だ」
喉の引っかかりを吐き出すような低い声だった。テオは手元の書類から視線を外さないまま、尖った言葉を投げつける。
「お前を見ていると、どうにも胃が重くなる。下がってくれ」
断絶の宣告。だが、ナタリーの睫毛は微動だにしなかった。妻の顔立ちは贅肉をそぎ落としたように引き締まり、その瞳の奥には怒りどころか、底の浅い水たまりのような諦めすら浮かんでいない。
「失礼いたします。お体障りませぬよう、テオ様」
掠れかけた声は驚くほど平坦で、ナタリーは音もなく踵を返す。
その後ろ姿から目を逸らすように、テオは両手でこめかみを強く押し潰した。爪先が髪の毛の生え際に食い込み、鈍い痛みが走る。どうせこの女も、愛想を振りまく裏で男を値踏みしているのだ。綺麗事の裏に隠された毒の味を知っているからこそ、この胸の奥の激しい疼きを抑え込むためには、冷たい言葉で周囲を切り刻むしかなかった。
廊下に出たナタリーは、重厚な扉を背にしてふっと小さく息を吐いた。
胸のあたりで締め付けられていた微かな緊張が、乾いた布がほどけるように消えていく。夫から浴びせられた言葉は、彼女の皮膚の上をただ滑り落ちるだけで、心臓のあたりをかすめることすらなかった。
「……こんなものね」
呟いた声の端が、乾いた音を立てて消える。
高等部の教室で、元婚約者のネイサンから告げられた日の冷たい感触が、ふと蘇りかけた。あの時、泣き喚く代わりに彼女はただ窓の外のプラタナスの葉を見ていた。周囲の憐れみを含んだ視線も、自分に向けられる好奇の噂話も、すべて遠い国の出来事のように感じられた。男運という根本的な欠陥を抱えた自分にとって、政略結婚の席など吹きさらしの小屋のようなものだ。冷たくされても、むしろ帳尻が合ったとさえ思えた。
自分の部屋に戻ると、ナタリーはドレスの重みを逃すように背筋を伸ばし、窓辺の作業椅子に腰掛けた。
机の上には、焼き上げたばかりのクッキーを入れたブリキの缶と、丁寧に手入れされたゼラニウムの鉢植えがある。カチャリと鳴る金属音とともに蓋を開けると、香ばしいバターと焦がし砂糖の匂いが鼻腔をくすぐった。
慣れた手つきで刺繍針を麻布に通す。
針先が繊維を押し広げる感触だけが、今の彼女の足元をしっかりと地に繋ぎ止めていた。華やかなドレスも、誰のための甘い笑顔も必要ない。ただ淡々と、自分の手で生地を縫い、自分の口に菓子を運ぶ。その地味な反復だけが、過去のざらついた記憶を少しずつ削り取ってくれていた。
(お互いに干渉せず、このまま静かに過ごせればそれでいい)
糸を切り揃えながら、ナタリーは心の中で小さく頷いた。その飾らない横顔には、他人の影を必要としない強靭な静けさが宿っていたが、彼女自身はそのことに全く気づいていない。
執務室の窓際。
テオはカーテンの隙間から、夕闇に沈みゆく庭木を睨みつけていた。
通常であれば、あの言葉をぶつければ、女は涙を零すか、あるいは不気味な作り笑いで取り繕うものだ。かつてのジュリアもデイジーもそうだった。気に入られようと上目遣いにすり寄り、その背後で平然と別の男と指を絡ませていた。女の涙も唇の柔らかさも、すべては男から財産を奪うための毒にすぎないと、テオの神経は学習しきっていた。
だが、先ほどのナタリーにはそれがなかった。
傷ついた素振りすら見せず、ただ一本の鉛筆のように真っ直ぐな背筋のまま、あの部屋を去っていった。
(あいつは、いったい何を考えているんだ)
思考の底で、疑念の泥が泡を立てる。
どうせ作り物に違いない。従順を装うことで警戒心を解き、足元をすくい取るための計算された芝居なのだ。そう頭の中で何度も唱えなければ、胸の奥を引っ掻くような焦燥感を抑えられなかった。
しかし、その理屈の裏で、心臓のあたりが嫌な音を立てて疼く。
あの瞳には、計算ずくの濁りが見えなかった。ただ静かに、誰にも頼らずに自分の足で立っている人間の、硬質な手触りだけがあった。
ざらついた砂のようなテオの胸の内に、予期せぬ風が吹き込む。それは心地よいどころか、頑なに張り巡らせた防壁の継ぎ目を内側から押し広げるような、生々しい動揺だった。
「……っ、くだらない」
吐き捨てるように呟き、テオは自らの手で厚手のカーテンを乱暴に引き合わせた。
それでも、網膜の奥に焼き付いたあの影は消えない。閉ざされた城壁の隙間に、ナタリーという予測不能な気高さが、音もなく楔を打ち込んでいる。




