九話 コローレ孤児院
別に正式に雇われているわけでもないし、ヤト先生は優しいから、私が少しくらい遅れても何も言わないけど。
「でも、試用期間中にできるだけ頑張りたいし! できることは全部やりたいんだよね!」
気持ち急ぎ足で進んでいく。
路地裏の入り口。だけどそこで、私はふっと足を止めた。工房へ続く道とは反対側へ向けて、一歩踏み出す。
最近、私にはもう一つ日課が増えたのだ。
「皆、おはよう!」
元気よく声を張り上げる。すると――。
「あ、ファナだ!」
「おはよー!」
「今日は何して遊ぶ!?」
小さな庭で遊んでいた子供達が、わっと駆け寄ってきた。
「あはは、ごめんね? 今から工房に行かなきゃだから、今日は遊べないの」
「えー!」
「また今度いっぱい遊ぶよ。約束、ね?」
しゃがんで目線を合わせ、小指を差し出す。
「ほんと? 絶対だよ!」
子供達の表情がぱっと明るくなり、小さな手が次々と重なった。本当に可愛いなぁ。前世で暮らしていた弟や妹も、こんな顔で笑ってたっけ。
「それじゃあ、またね」
子供達に手を振り、奥へ進む。
古いけれど、どこか温かみのある家――ここが、あの子達の暮らす《コローレ孤児院》だ。私は迷いなくその扉へ手をかけた。
「お邪魔しまーす」
ゆっくりと孤児院の中を見渡す。
壁はところどころ塗装が剥がれ、木材がむき出しに。棚に並ぶ玩具はどれも欠けていて、色もすっかり褪せてしまっている。窓際には古びた布がカーテン代わりに掛けられているけれど、ほつれた隙間から冷たい風が入り込んでいた。
――お金がない。そんな現実が、ひと目で分かる。
「あら、ファナちゃん」
中から聞こえた柔らかな声。
「院長先生」
振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた年配の女性が立っていた。
「また来てくれたのかい? 忙しいだろうに無理しなくてもいいんだよ」
「私、ぜんぜん忙しくないですよ。だから大丈夫!」
にこっと笑って返すと、私はいつものように入口近くに置かれていた大きな洗濯籠へ手を伸ばした。水洗いされたばかりの布の匂いが、ほのかに香る。
「これ、ぱぱっと干してきちゃうね!」
「あっ、ファナちゃん――」
止める隙も与えず駆け出し、反対側の庭にある物干し竿の前へ向かう。
そこで足を止め、一つ一つ丁寧に洗濯物を干していった。子供達全員分だから、そりゃあ量も多いよね。
「工房に行くの、ちょっと遅れちゃうかも」
滴る汗をそっと拭った、その時――。
「まったく……君は勝手に行動するんだな」
ひょい、と横から洗濯物が一枚持ち上がる。
「ヤト先生!」
いつの間に来たんだろ。
先生は呆れたようにため息をつきながらも、慣れた手つきで洗濯物を干し始めた。その手際の良さに、思わず「おお……」と感心してしまう。
「ヤト先生、上手ですね。きっといい旦那様になりますよ!」
「それはどうも」
二人で作業すると、山のようだった洗濯物はあっという間になくなった。
白い布や色とりどりの服が風に揺れる様子を見上げていると、なんだか達成感があって気持ちいい。
「二人とも手伝ってくれてありがとうね」
洗濯を終えて縁側に腰を下ろすと、院長先生がお茶を淹れてくれた。湯気と一緒に良い香りが漂い、自然と肩の力が抜ける。
「いえ。それより、ファナがここにいると教えていただいて助かりました」
ヤト先生は受け取ったお茶を一口飲むと、ふっと笑みを浮かべた。
そして、そのまま私へ視線を向ける。
「ユラを孤児院に送り届けた時、ファナにも案内したけど……それからずっとここに通っていたんだって? 僕に隠れて」
――どうしてだろ。ヤト先生は笑っているのに、背筋がちょっぴり寒い。
「錬金術の勉強に工房、そのうえ孤児院の手伝いまで……さすがに無理しすぎだ」
「無理をしているつもりはないのですが」
「でもファナちゃん、最近は夜にも顔を出してくれるだろう? 助かるんだけどねぇ、やっぱり心配で」
院長先生が湯飲みを置き、頬に手を添えて私を見つめる。
「あ、院長先生。それは……っ」
「ファーナぁ? どういうことかな?」
声は穏やかなのに底が黒い。ぞくりと背筋が震えて、思わず顔をそらした。
「……旦那さんだって心配するだろう」
「旦那様も家の人達も、私に微塵も興味がないので平気ですよ」
「それはそれで心配になるんだけどねぇ……」
ヤト先生と院長先生の表情が揃って曇る。あれ? 私、何か変なことを言ったかな。
「……本当に、二人には感謝してるよ」
ぽつりと落ちた声は小さくて、どこか弱々しい。
「この孤児院はどうしても余裕がなくてね。申し訳ないと思いながらも、助けてもらってばかりだ」
微笑む院長先生の横顔は、少しだけ寂しそうだった。
――コローレ孤児院。
ここは身寄りのない「無色」の子供達が暮らす家。院長先生は少ない世話係達と力を合わせながら、毎日必死に子供達を育てている。
「私、助けてるつもりないですよ?」
頬に人差し指を当てて、首を傾げる。
「え……」
驚いたように顔を上げた院長先生へ、にぱっと笑いかけた。
「私はただ、子供達と遊ぶのが好きで来てるだけなので」
元気いっぱいに走り回る子供達を見ていると、なんだか胸がぽかぽかする。一緒に遊んで、一緒に笑って。そんな当たり前のことが、私にはとても特別だ。
「それに、私はユラに会いにきてるの!」
自然と声が弾む。
ユラ――あの時、路地裏の魔法工房で出会った小さな女の子。
廊下の奥へ進むにつれて、騒がしい子供達の声がゆっくりと遠ざかっていく。
静けさが戻り始めたその先、ひっそりとした扉の前に立つと、こほん、こほん、と、小さな咳の音が聞こえた。
「ユラ、おはよう!」
「……ファナさん。ヤト先生も……」
部屋の中に入ると、ベッドの上で寝間着姿のまま座っているユラがあった。
「ほら、ユラ。新しい《夢見の袋》だよ」
「わぁ……ありがとう、ヤト先生。今日は何の匂いだろう」
先生から《夢見の袋》を受け取ったユラは、胸の前でそっと抱えるようにして、嬉しそうに香りを確かめた。
「それね、私も一緒に作ったんだよ。ユラがいい夢見られますようにって願いを込めて」
「……あ、ありがとうございます、ファナさん」
控えめに微笑むユラの頬は、ほんのり赤く染まっていた。
最初は私が話しかけても、おどおどしてばかりだったのに。こうして名前を呼んで、笑顔も見せてくれるようになったんだよ! ふふ、嬉しいなぁ。
「ユラ、ごめんな。ファナが毎日押しかけてるんだろ?」
ヤト先生が申し訳なさそうに言うと、ユラはすぐに小さく首を横に振った。
「ううん……嬉しいの。寝てばかりで退屈だし……ファナさん、いろいろお話してくれるから……」
「そう言われると……ここに来るのを反対しづらいな」
「でしょう?」
つい笑顔になってしまうと、ヤト先生がじとっとした目を向けてきた。
「こら、調子に乗らない」
そう言いながら、ヤト先生は私の頭をぽん、と軽く叩く。
「ふふ……先生達、仲がいいんだね」
その姿を見ていたユラが、小さく笑った。私もつられて笑う。
部屋の中にはふんわりと温かな空気が広がっていて、穏やかで優しい時間が流れていた。――束の間の間の。
「こほん、こほん、ごほっ!」
突然、喉を裂くような咳が響く。
「ユラ、大丈夫!?」
胸が跳ねて、思わず身を乗り出す。
小さな背中に手を添えると、指先に触れた肩は驚くほど細くて頼りなくて……今にも折れてしまいそうだった。
「っ……は、っ……」
苦しそうに息を吐くたび、肩が小さく上下する。その姿に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「ユラちゃん、大丈夫かい?」
扉が開き、院長先生が部屋へ入ってくる。
咳き込むユラを見ても慌てることなく、そっと背中をさすりながら穏やかに言った。
「いつもの発作だね。しばらくすれば落ち着くから、心配しなくていいよ」
その手つきはとても慣れていて、迷いがない。
ユラの肩を支えゆっくりと横に寝かせて呼吸を整えていく姿は、前世でお世話になった看護師さん達の姿と重なって見える。
やがて咳は少しずつ収まったものの、ユラの顔にはまだ苦しげな影が残っていた。
「ユラ……この前は、工房まで来てくれたのに」
「最近、落ち着いてきたと思ったんだけどねぇ」
院長先生はユラの胸元を、トントンと優しく叩きながら呟く。
「ユラは私がみているから、貴女達はもう仕事に戻っておいで」
「でも――」
「ユラを気にかけてくれてありがとうね。ファナちゃんが来てくれるようになってから……あの子、本当に表情が明るくなったんだよ」
そう言って、そっと私の手を包み込んだ。
「また顔を見せにきてあげてね。……ただし、無理のない範囲で」
「……ファナ」
隣でヤト先生が小さく名前を呼ぶ。
私は眠るユラへもう一度視線を向けた。枕元には《夢見の袋》がちょこんと置かれていて、ほのかな香りが静かな部屋に漂っている。
「……ヤト先生、今日はもっといい匂いのする夢見の袋を作りましょうね!」
「そうだね」
先生に背中を押されるようにして、部屋を後にした。




