七話 《公爵夫人と平民。二重生活始めました》
《公爵夫人と平民。二重生活始めました》
……ふわふわする。
足元は雲の上みたいに頼りなくて、世界が少しだけ白く滲んで。現実なのに現実じゃない、不思議な感覚。
『スエイル様っ!』
水面を叩いたみたいに声が響いて、反射的に振り向く。
そこにいたのは――私。
……ううん、今の私じゃない。転生する前のファルファナ。彼女は眉をきつく寄せ、旦那様の腕へ必死にしがみついていた。
『どうして……どうして私をエスコートしてくださらないの!? 貴方の妻なんですよ!』
『……そもそも、君をこのパーティーに連れてくるつもりはなかった。君が勝手について来ただけだ』
旦那様は掴まれた腕をばっと振り払うと、そのまま一歩距離を取る。
けれど、ファルファナは諦めない。唇をぎゅっと噛み締めると、その背中を追うように一歩踏み出した。
『旦那様にエスコートしていただけない私が、どれほど惨めな思いをしているか……分かっていらっしゃるの!? 皆、私を笑っているんですよっ!』
――この世界の貴族のパーティーでは、パートナーにエスコートされるのが当たり前。
隣に立つはずの相手がいないというだけで、「私は見放されています」と周囲へ示しているようなもの。
旦那様は彼女の訴えを静かに聞き終えると、眉間へ深い皺を刻んだ。
『君が来て何になる。来れば周囲に迷惑をかけ、ダンスも挨拶も一つとしてまともにできないのに』
『そんなもの、周囲がフォローすればいいだけでしょう! 私は公爵夫人なんだから、その場に立っているだけで価値があるのよ!』
胸を張って言い切る姿に迷いはない。
むしろ必死に自分を支えているみたいに、言葉を続けていく。
『お父様とお母様も言ってらしたもの! 私は無色だけど特別な子なんだって。どれだけ我儘を言っても、癇癪を起こしても許される……『悪い子』でいていいって……そう育てられたんだから!』
その姿が私には――どこか痛々しく見えた。
『くだらない』
『スエイル様……!』
旦那様の一言は、ファルファナの必死さを一瞬で断ち切った。取り付く島もないように、静かに背中を向ける。
『どうしてなの……? 私は妻で、貴方を愛しているのに……どうして振り向いてくれないの……!?』
『結婚はするが、愛は求めるなと言ったはずだ』
氷のように冷たい声。
ぼんやり霞む景色を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
……そっか。これは夢なんだ。きっと、過去のファルファナの夢――。
◇
私の一日は、まだ空が薄暗い早朝――四時に起きるところから始まる。
「ふわぁ」
大きな欠伸を一つ。
「昔の夢、見ちゃった」
眠気を振り払うように、冷たい水でぱしゃりと顔を洗う。
魔法が使えない私は、屋敷の隅にある小さな井戸まで行って水を汲んでこなければならないんだけど……ひんやりとした井戸水は、手のひらに触れただけでしゃきっと目が覚めた。
「うん、すっきりしたぁ」
ぐーっと体を伸ばす。
公爵邸はまだ静まり返っていて、部屋の空気もひんやりと冷たかった。
「さて、始めますか」
視線を机へ向ける。
そこにはヤト先生から借りた錬金術の本や素材の図鑑が山のように積まれ、床にまで広がっていて……うん、もう少し整理整頓したほうがいいのは自分でも分かってる。
「よいっしょっと。あ、これこれ!」
散らかった本の山をかき分け、昨晩読み進めていたページをぱらりと開いた。
錬金術師を目指すと決めてからは、こうして起きてから工房に向かうまでの時間のほとんどを勉強に充てるようになった。
――コンコン。
しばらくして控えめなノックの音が、静かな部屋に響く。
「……失礼します、ファルファナ様。朝食をお持ちしました」
そっと扉が開き、侍女が軽く頭を下げながら入ってくる。手にしたお盆には、サンドイッチや果物など手でつまめる軽い朝食が並んでいて。
「わぁ、美味しそう! いつもありがとう!」
にこっと笑顔で迎えると、侍女の表情がなぜか固まった。
「あ、あの……」
そして言いにくそうに視線を泳がせる。
「本当にこれでよろしいのですか? 以前は朝から豪勢な料理をご所望になり、スエイル様とご一緒に召し上がりたいと強く仰っておりましたのに……」
「うん、大丈夫。朝からそんなに食べられないし、旦那様は忙しいんでしょ? わざわざ一緒じゃなくてもいいよ」
あっさり答えた私に、侍女はさらに戸惑ったように瞬きをした。
――転生前のファルファナがそんな希望をしていたなんて知らず、初めて朝食を用意された時は本気で驚いた。
広いテーブルに座っているのは私一人。
ずらりと並んだ料理は、どう見ても一人で食べきれる量じゃなくて。まるでどこかの大家族の一員にでもなった気分だった。
結局は昼と夜に分けてもらって、無理して食べたんだけど。
「今日もお出かけでしょうか?」
「そうだね。夕食前には戻ってくるよ」
サンドイッチを頬張りながら今日の予定を伝える。
工房が開く九時から十八時までは、素材の採取やアルケミアの制作。
本当はもっと長く工房にいたいんだけど、ヤト先生から暗くなる前には帰れと言われているから、それはできない。
「あ、そうだ! あの電気みたいな――光の魔法? だっけ。今日も、私が戻ってから夜の零時までお願いしていい?」
天井の魔導灯を指差すと、「かしこまりました」と侍女は静かに手をかざした。
淡い光がふわりと魔導灯へ流れ込み、灯りが柔らかく常駐する。うん、これで夜の勉強時間も安心だね。
「では、失礼いたします」
侍女が丁寧に頭を下げて退出していくのを見送り、私は机へと足を向けた。
その途中――扉のすぐそばにある小さなサイドテーブルに、ぽつんと一通の手紙が置かれているのがふと目に入った。
「そういえば読んでなかったや」
机へ歩み寄り、封筒を手に取る。差出人の名前を見た瞬間、さっきまで浮かんでいた笑みが、すっと薄れた。
――ミシュラート侯爵家。
「……本当によく飽きないなぁ、この人達」
便箋には言葉がずらりと並んでいて。
『役立たず』『無能』『無色』『家の恥』『出来損ない』『価値のない娘』。そのどれもが、私を蔑む言葉だった。
「私のお父様とお母様のはずなのに、ひどいね」
ぽつりと言葉を落とす。
そして私は――ためらいもなく、手紙を丸めてゴミ箱へ放り込んだ。
「ゴミはゴミ箱に入れるのが一番だよね!」
明るく言い切って、また机へ向かおうと足を進めようとしたが――コンコン、と軽いノックが再び響く。戻ってきた? 忘れ物かな。
「どうぞ」
くるりと回れ右して扉を開ける。
そこに立っていた人物を見て、私は思わず目を丸くした。




