三十六話 《円満離婚に向けて》
《円満離婚に向けて》
優雅な音楽が、誰もいない深夜の舞踏室に響き渡る。
なんだか懐かしい。だってこれは私が最初に転生した時、この世界で初めて耳にした曲なんだもの。
「よいっしょっと。これで合ってるかな?」
大きな鏡の前で、くるりと一回転。
スカートの裾がふわりと広がって、少しだけ遅れて長い髪が揺れる。
「うーん……もう少しかな?」
今度は足先の向きを少しだけ意識して、もう一度。くるり。
「うん、さっきよりいい感じかも!」
鏡の中の私が嬉しそうに笑う。
「……練習できて良かったね。ファルファナ」
そっと鏡へ向かって呟いた。
この世界では、ダンスは貴族なら踊れて当たり前。でもファルファナは、きっとあの毒親のせいで、まともな教育を受けれなかった。それに、転生前の私はずっと病弱で、思い切り体を動かすことができなかった。
だから――こうして好きなだけ踊れて、好きなだけ練習できる。それだけで嬉しい。
「よし、もっと頑張ろうっと!」
胸の前で小さく拳を握り、音楽に合わせてもう一度ステップを踏む。
……どれくらい踊っていたんだろ。
「わぁ!? 旦那様!」
くるりと回った勢いのまま視線を向けると、舞踏室の入口で腕を組み、扉にもたれかかる旦那様の姿が目に飛び込んできた。
「い、いつからいたんですか?」
「……少し前からだ」
それなら声をかけてくれたら良かったのに。
旦那様はこつこつと私の近くまで歩いてくると、静かに口を開いた。
「工房での仕事もあるのに、ここで夜遅くまで練習しているそうだな」
「だって、パーティーまでもう時間がありませんから!」
そう。色々ありすぎて少し忘れかけていたけれど、この練習は旦那様と出席するパーティーのため。
そのために旦那様はダンスも作法も、一流の先生を手配してくれていた。
「本当にありがとうございます、旦那様!」
ぱんっと手を合わせて笑顔を向ける。
「最初はお願いを断られちゃいましたけど、それでもちゃんと手配してくださって……すごく嬉しかったです!」
「……誤解するな。俺はただ、自分の妻がダンスも踊れないのかと笑われるのが面倒なだけだ」
「ふふ。お任せください! 旦那様に恥をかかせないように、一生懸命頑張りますね!」
そう宣言すると、旦那様はほんのわずかに目を細めた気がした。
「このパーティーは帝国の繁栄を祈る式典でもある。帝国中の貴族が集まり、『マギアの花』を献上し、舞踏会で家の名を示す場だ」
「式典? マギアの花?」
こてんと首を傾げる。
「……まさか知らないのか?」
その声には、「帝国の貴族なら知っていて当然だ」という響きが混じっているようで――あっ、やば。
「ちょっと待ってください。今、思い出します!」
慌てて目を閉じる。
ええっと……記憶の本棚、記憶の本棚っと。花を献上する式典……マギアの花……。
「あっ、もしかして《マギアの祝宴》ですか?」
「そうだ」
よし、大正解!
思わず胸の中で小さくガッツポーズを決めた。
「グランホール帝国における格式高い式典の一つだ。マギア塔の管理を担うエルライン公爵家は、帝国の魔力を支える家として必ず参列することになっている」
「……ということは、場所は《マレギリア》ですね」
うんうん、思い出してきた。
マレギリアは、マギア塔のすぐ傍に建てられた帝国最大の式典場。
季節の祝宴や皇室の行事、それから色んな催しが開かれる場所で――私がこの世界で最初に目を覚ました場所でもある。
小説に登場した式典やパーティーも、そのほとんどがマレギリアで開かれていた。
――そうだ。物語の終盤。ファルファナが捕まる場所も、このマレギリアだった。
「ファルファナには、舞踏会から参加してもらう」
「式典には参加しなくていいんですか?」
「君が参加しても意味がないからな」
「分かりました」
迷うことなく頷く。
すると、旦那様がわずかに眉をひそめた。
「結婚前の君は『どうして式典に参加させてくれないの!?』と舞踏会の場で騒ぎ立てていた記憶しかないが。まさか、あれも――」
「はい。私、悪い子だったので。我儘を言って困らせちゃっていました」
厳密に言うと、それは私ではないけど。
旦那様は一瞬だけ視線を揺らした。何か言いたそうに唇を開きかけ――結局、その言葉は飲み込まれてしまう。
「……ファルファナの悪評は以前よりも広がっている。向けられる視線は、これまでより一層厳しくなるだろう」
「ですよね」
あの時のパーティーでも、周りの視線はとっても冷たかった。そういえば、令嬢達から魔法まで飛んできたっけ。もう懐かしいなぁ。
「君には居心地の悪い場になるが――」
「ご安心ください!」
ぎゅっと拳を握って胸を張る。
「旦那様にご迷惑はおかけしません! もしまた絡まれても、今度はちゃんと真正面から立ち向かってみせます!」
「君の錬金術の腕を知った今、その台詞は恐怖でしかない」
旦那様は真顔だった。あれ? 私、何か変なこと言ったかな?
首を傾げて考えてみたけど、次の瞬間――真顔になったのは、今度は私の方だった。
「パーティーにはミシュラート侯爵夫妻もくる。……当日は、俺のそばを離れるな」
「……え」
思わずぱちぱちと瞬きを繰り返す。
今、何て言ったんだろう。「離れていろ」じゃなくて――「俺のそばから離れるな」? 一瞬、頭の中が真っ白になる。
でも、すぐにぴこんっと閃いた。
「私が余計なことをしないように、ちゃんと見張っていてくださるんですね!」
両手を胸の前でぎゅっと合わせ、きらきらした目で旦那様を見上げる。
「悪妻の私のことを、そんなに気にかけてくださるなんて……やっぱり旦那様は優しいです!」
「…………」
しばしの沈黙。
旦那様は何とも言えない表情で私を見つめると、小さく息を吐いた。
「いいか? くれぐれも大人しくしていろ」
「はい、お任せください」
にこっと笑って答えてみたけれど、旦那様はまだ怪訝な表情を浮かべていた。おかしいなぁ。
「……彼等の悪事については、まだ掴めていない。だが、君の話が事実なら見逃すわけにはいかない」
「はい。必ずお父様とお母様の悪事を暴いてくださいませ。そのためのお手伝いなら、喜んで力になりましょう」
スカートの裾をつまみ、教わった通りに優雅に一礼する。
「どうです? 先生から教わったお辞儀、ちゃんとできていますか?」
「……別に。悪くはない」
「えへへ」
褒めてもらえた。
それだけで、今日の練習がもっと楽しくなる。
「では、練習を再開します!」
私はくるりと踵を返す。
でも、ふと思い立ってもう一度だけ振り返った。そして、そっと旦那様へ手を差し出す。
「旦那様、私と踊っていただけませんか?」
「……断る」
「あらら、残念です」
くすくすと笑いながら手を引っ込める。
まだ旦那様と踊るには実力が足りてないのかな? なら、もっと頑張らないと!
「いつか旦那様が『踊ろう』って言ってくださる日まで、いっぱい練習しておきますね!」
音楽に合わせて、一歩、また一歩。舞踏室には軽やかな靴音が響き、その様子を旦那様は静かに見守っていた。
――マレギリア。
ファルファナの悪事が露呈する場所でもあるけど……ヒロインもまだ現れていないし、物語の結末はまだまだ先のはず。
うん、大丈夫だよね?




