三十五話 番外編sideスエイル 悪妻からの贈りもの
◇ side スエイル
グランホール帝城東棟、エルライン公爵執務室。
机の上には「ミシュラート侯爵家」と記された調査資料が幾重にも積まれ、その周囲には帝都の地図や人物相関図が広げられている。
俺は報告書を一枚ずつめくり、目を通しては脇へ積み直した。
「……はぁ」
気づけば、ため息が漏れる。
眉間を指で押さえながら、机上の資料へ視線を落とした。
「さすがは侯爵家か。裏で何をしていようと、表に出ている痕跡は一切ないな」
ファルファナから聞かされた侯爵家の黒い話は、想像以上に衝撃だった。
本人は軽い気持ちで暴露したのかもしれないが、貴族――マギア塔の管理を任される侯爵家が裏社会と結託し、犯罪組織を利用している――。
事実なら、笑い話では済まされない。
「スエイル様。慈善事業横領の件で拘束したサロンの女主人ですが――」
「話したのか」
部下の報告に顔を上げる。
「……申し訳ありません。完全に沈黙を貫いております」
ちっと、思わず舌打ちが漏れた。
「手を緩めるな。口を割るまで徹底的に追い詰めろ」
「はっ!」
一人の部下が敬礼すると、足早に執務室を後にした。
「侯爵家の監視状況は?」
「現在も監視を継続しております。しかし、これといった不審な動きは確認できておりません」
報告は、どれも同じだ。決定的な証拠は一つとして出てこない。
現状、ミシュラート侯爵家が犯罪組織と繋がっていると証言しているのはファルファナただ一人。証拠としては、あまりにも脆弱だ。
「ただ……その」
「何だ」
「侯爵夫人が主催したお茶会に出席した令嬢の一人が、『ファルファナ様の悪評を広めるよう指示を受けた』と証言しております」
……あの両親は、どこまで腐っているのか。
「監視を続けろ。わずかな異変も見逃すな」
「はっ!」
部下は一斉に敬礼すると、それぞれ執務室を後にする。最後の一人が扉へ手を掛けた。
「良い香りですね」
ふと足を止め、部下が小さく鼻を鳴らす。
視線は、自然と机の端に置かれた薄紫色の小袋へ吸い寄せられていた。
「心が安らぐような、優しい香りがいたします」
俺もつられるように、その小袋へ目を向ける。
「スエイル様が、このような物を机に置かれるとは……少々意外でございました」
「……無駄話はいい。仕事に戻れ」
「し、失礼いたしました」
部下は慌てて一礼すると、今度こそ静かに執務室を後にした。ぱたん、と扉が閉まる音が響き、室内へ静寂が戻る。
「……ふん。くだらない」
誰に言い訳するでもなく小さく吐き捨てる。
そう口では言いながらも、俺の手は自然と薄紫色の小袋へ伸びていた。柔らかな布越しに、ほのかな香りがふわりと立ち上る。
……確かに、不思議と気持ちが落ち着く香りではあった。
「そういえば……しばらく顔を合わせていないな」
侯爵夫妻の件に追われ、このところ屋敷へ戻る時間すら満足に取れていない。
無意識に、次は机の引き出しへ手を伸ばした。
中には几帳面に束ねられた数通の手紙。どれも可愛らしい便箋に綴られ、封筒の表には見慣れた丸みのある文字で俺の名が記されている。
――ファルファナからの手紙だ。
『旦那様
ちゃんとご飯は食べていますか? お仕事ばかりで無理していませんか? 疲れたら少し休んでくださいね!』
便箋いっぱいに並ぶ、他愛もない気遣いの言葉。
俺が屋敷へ帰らなくなってから、三日に一度のペースで届く手紙だ。……俺は、一度も返事を出していないのに。
『あ、そうだ! 旦那様が少しでも休めるように、私が作ったアルケミアを入れておきますね! 《夢見の袋》です! 良い香りがして心が落ち着くと思うので、使ってくれたら嬉しいです!』
読み進めるほどに、張り詰めていた肩の力が少しずつ抜けていく。
『追伸 また落ち着いたら、一緒にご飯食べてくださいね』
「…………」
読み終えた手紙を、そっと封筒にしまう。
胸の奥で、言葉にならない何かが揺れた。
浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ得体の知れない感情。……何だ、これは。彼女からの手紙なんて、迷惑でしかなかったのに。
「馬鹿馬鹿しい」
自嘲するように呟き、背もたれへ深く身を預ける。指先でそっと《夢見の袋》を撫でると、ふわり、と甘く優しい香りが鼻先をくすぐった。
働き詰めで疲れているせいだ。こんなものに心を乱されるなど、どうかしている。
「……ファルファナ」
気づけば、その名が唇から零れていた。
手の中の小袋を見つめる。ほんの一瞬ためらったあと、無意識のまま唇をそっと寄せた。
――コン、コン。
「失礼いたします」
ノックの音に我に返る。
反射的に小袋を机へ放り投げると、何事もなかったかのように姿勢を正した。
「……お邪魔でしたでしょうか?」
中に入ってきたのはガラドだった。いつものように表情を崩さず、静かに問いかける。
「問題ない!」
短く返した声は自分でも分かるほど硬かった。
ガラドなら、そのわずかな変化に気づいているはずだ。それでも優秀な執事らしく、何も追及はしなかった。
「それで、何の用だ。お前には公爵邸の管理を任せてあるはずだが」
「はい。スエイル様にお伝えすべきことがございまして」
「何だ?」
「本来は、旦那様のお仕事が落ち着いてからと申し付かっていたのですが……ファルファナ様より伝言を預かっております」
「……ファルファナから?」
ガラドは一拍置き、静かに告げた。
「『工房が大ピンチなので、助けてほしい』とのことです」
「――は?」
思考が一瞬止まる。
ガラドはそんな俺の反応など意に介さず、淡々と言葉を続けた。
「現在、路地裏の魔法工房はハイデルク商家の跡取りによる度重なる妨害を受けております。このままでは工房の存続も危うい状況かと」
「ハイデルク商家……っ」
その名には聞き覚えがある。ミシュラート侯爵家と繋がりがある商家だ。
「なぜ、すぐに伝えなかった!?」
感情が一気に噴き上がり、思った以上に声が荒くなる。
「火急の用以外は控えるよう仰せつかっておりましたので。今後は、ファルファナ様に関する事柄を最優先事項として扱ってよろしいのでしょうか」
「…………」
返す言葉が喉でつかえた。
以前の俺なら、迷わず「不要だ」と答えていただろう。
彼女のことを我儘で傲慢で、一方的な愛を押しつけてくる鬱陶しい存在だと本気で思っていた。だから……その声を聞こうともしなかった。
「すぐに手を回せ。素材の手配、警護、噂の払拭――必要なものは全てだ!」
「かしこまりました」
机の端に転がった《夢見の袋》が視界の端で静かに揺れる。
これは、贖罪だ。
俺は見抜けなかった。彼女が親に命じられるまま「悪妻」を演じ続けていたことに。これは、その罪を償うため。ただ、それだけのこと。
そう自分に言い聞かせても――机の上の《夢見の袋》から視線を逸らすことは、最後までできなかった。




